Reference

決断の集積、そして軽やかな覚悟(テキスト:八巻香澄)

八巻香澄(東京都庭園美術館 学芸員)
(この文章は、2009年に東京都庭園美術館で開催された「Stitch by Stitch 針と糸で描くわたし」展のカタログから抜粋されたものです。)

まずは、刺繍や織物という概念を文字通り「壊す」手塚愛子からはじめよう。

通常は見せない裏面の糸を剥き出しにした刺繍や、すでにできあがっている織物からわざわざ糸を引き出して解体する作品(Fig.1)はとてもスペクタクルだが、テキスタイルの新しい表現を通じて素材や技法の可能性を開く、といったような所作ではない。手塚は、これらの作品を通じて「絵画」を解体している。

 なにかの表面に線や色を乗せれば、それだけで絵画は生まれる。そこに絵画があれば、人はその表面の色面だけを見て理解してしまう。しかし重厚な織物が解かれた時、表面にあらわれている色だけではなく、何重にも重なっている糸の色を見るという体験は、表面のイメージのみを見るという絵画鑑賞のモードを解除させる。

同じく刺繍の作品においても、布の裏表を往還することで図像を描く刺繍の特性に注目し、通常は隠されているはずの裏側を見せ、糸の存在を剥き出しにした。これもまた、絵画というものを成立させている「表面」を無効化し、糸の重なりと布とその裏を交差する糸の重なり、という物質に還元することによって、絵画(イメージ)を解体させる試みである。

 手塚にとって糸は、構造とイメージという、相反する状態をつなぐ両義的な存在なのだ。

 そしてまた、「絵画」や「芸術」という表現が生まれる以前の根源的な状態から現代までをつなぐ、歴史の糸口でもあることが、そこに描かれるモチーフの選択から伺える。初期の作品には古典的な蓮の花や更紗文様など日本や東洋の染織文化に基づく伝統的なイメージが採用され、《grid》シリーズでは、東慶寺の水月観音やベルニーニの彫刻《聖テレサの法悦》の裾のドレープが登場し、美術作品の系譜をさかのぼる。そこに、糸や布の起源やそれらが織り出してきた人間の文化そのものなど、歴史的な視点から織物や刺繍を捉える手塚の態度があらわれている。

 そして油絵《空白と充満を同時にぶら下げる》(2004年)にはヨーロッパのレース文様とインドの更紗文様が、MOTアニュアルに出品した大作《層の機》(2008年)には、コプト織や上代裂の文様、フランスの装飾パターンなど、さまざまな土地や時代のモチーフが併置されているのを見るとき、現在私たちが「美術」と呼ぶところのものが相対化されているのを感じるのだ。

 この傾向は2008年に国際芸術センター青森にてレジデンスプログラムに参加し制作した《Bags》において、さらに強められている。《Bags》の袋には、近代のパラダイムの中で生まれた単語やこぼれおちた言葉(「ごうり(合理)」「しょゆう(所有)」、または「けつぞく(血族)」「じゅそ(呪詛)」「いくつものかみ(幾つもの神)」など)が日本語と英語で刺繍され、また別の袋には何かを掬い取るような手の形が描かれている。このむすぶ手の形は「絵画」や「美術」といったくくりでは捉えきれない、表現のはかなさや力強さの象徴として、《skim 1》にも登場する。

 新作《落ちる絵》(2009年)においても、表現をめぐる3つの世界が示されている。一つはベラスケスの《ラス・メニーナス》やフランソワ・ブーシェの描く人物像の衣のドレープだけを抽出した線が表す、西洋美術の歴史。二つ目は《天寿国繍帳》や更紗文様が表す、日本やアジアの染織工芸の伝統。そして最後に、あやとりをする手やオシラ様の図像、編み物の編み図が示す、地域信仰のかたちや手芸など、一般の人々による造形の系譜。作家はこの3つの世界に等しく共感と尊敬の念を込めながら、「表現」の歴史そのものを捉えなおす試みを続けている。