Reference

層という異界へ、あるいは回復のための練習(テキスト:日比野民蓉)

日比野民蓉(国立新美術館研究補佐員)
2015年、東京

色材を重ねて正しいひとつの面を完成させる絵画。塗りこめられ重ねられる層のひと つひとつが持ちあわせているはずの時間や物語は、確かにそこに堆積されてはいるもの の、私たちの目に直接とらえられることはない。この、絵画を形成するレイヤーを文字 通り解体し、視覚化する方法として、手塚は「織りとしての絵画」をうみだした。糸が 織られることによって出来上がる布は、織りがほどかれることによっていとも簡単に原 型の糸に戻すことができる。私たちのまわりに溢れるほとんどすべてのものが、実は元 のすがたに還元できないという事実を考えてみれば、糸や布という素材は、非常に身近 でありながらも稀有な存在であることがわかるだろう。

大学の油画科に在籍し、絵画というメディウムの構造に着目した手塚には、「織りと しての絵画」に先行し、現在まで継続している刺繍の作品群がある。絵具の代わりに、 糸を用いてカンヴァスにかたちを描くことから、手塚の制作ははじまった。初期の刺繍 作品では、像の描かれたカンヴァスのすぐ裏に素材となる(なった)糸がすべてさらけ 出され、像の現れているおもてと、無数の糸が集まる裏を同時にみることができる。刺 繍によって、のりで固められてしまう絵画とは異なるしなやかさを、糸と布という素材 に意識した手塚は、おもてと裏、そしてその中間層という「異界」を共存させる織りの 解体へと、制作手法を展開していった。

手塚の制作でほどかれる対象となる織物は、百年ほど前のアンティークの布から、フ ァストファッションブランドのスカーフ、手塚自身がデザインし新しく織られた織物ま で、多岐にわたる。時代や地域、モティーフのさまざまな織物をほどきながらも、手塚 の制作の中心は常に、私たちの手からこぼれおちていく不可逆の時間をすくいあげ、世 界の構造と時間を解きほぐすことにある。

画面の中央部分だけを丸くほどいてしまう<Lessons for Restoration>は、パースペ クティブの中心、つまり消失点を解体し、ぼやかしてしまう作品である。透視図法とい う絵画の約束事をあやふやにし、私たちのものの見方の「回復ための練習」を図るこの シリーズは、この度フィレンツェという地の現代の土産品がほどかれることによって、 その意味を強化させた。一方、<Certainty / Entropy>(2014-, pp.158-159)は、イ ギリスの植民地支配下にあったシンガポールで、イギリスと中国、インド、マレーなど の文化が混ざり合って形成されたペラナカンの図様を引用しつつ、あいだに現代的な記 号を組み入れた織物をほどいている。BIO マーク、リサイクルマーク、卵巣の簡略図、 ピースマーク、放射能のハザードシンボルなど、現代社会をとりまく記号が金糸で織り

込まれた同シリーズの《Certainty / Entropy (England 6)》は、今回、まばゆい裏面が あらわにされることにより、構築と再構築の循環をより劇的に表現することだろう。

本展のための新作《Dear Oblivion 1》(2015)では、クリュニー中世美術館に所蔵さ れる《貴婦人と一角獣》とクロイスターズ美術館の《一角獣狩り》が参照され、豊かな 自然の中で戯れる動物たちを背景に、天蓋が開かれて姿を現した泉、そしてその泉に伸 びる二組の手が配されている。肥沃な大地、ひとが水で手を洗うこと、生命の根源であ る水を湧き出す泉に建てられた構造物の胴体が解体されていることなどはすべて、震災 後の私たちに宛てられた「親愛なる忘却」のためのメタファーである。食という生命維 持の根幹が脅かされることへの危機感は、ナチス台頭前の 1920 年代にドイツでつくら れ、実際に使用された生々しい痕跡を残すテーブルクロスをほどいた《Suspended Organs (Kitchen)》(2013, pp.156-157)にも共通する問題意識であった。

過去の織物やモティーフを解体することで、手塚は今現在の私たちのリアリティを、 視覚的に現前させる。そして、社会的、文化的、政治的、経済的なこの世界のありとあ らゆる成り立ち、ひいては私たちの心理的構造を解きほぐすことと繋がろうとしている。 潔く整然と引き抜かれた糸の束は、中身をさらすというのに、少しのとまどいも感じさ せない。そのあざやかさは、不気味さを伴いながらも、現実への希望を宿している。