Artist Statement

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

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衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

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衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

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しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

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彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために

閉じたり開いたり そして勇気について

ドイツの弁護士に、君は brave – 勇敢だね、と言われたことがあります。単身で外国でアートなんかをしていることが。確かに母語の国で家族と暮らす人にとってはそう見えるのかもしれませんが、私にはその言葉が妙に印象に残りました。

今回の新作は、長崎の出島を旅したことがきっかけとなっています。船しかなかった時代、死ぬかも知れないのになぜ彼らは危険を冒してまで海を渡り、知らないところへ行くのか。なぜ知らないものを見たいのか。私は弁護士に言われたことと出島を、なんとなく重ねて考えていました。開くことと閉じること、それに伴う勇気と好奇心について。

17世紀の鎖国に至った経緯と、江戸と明治の境目の開国の在り方が、私たちの現在の日本を決定づけました。海外から日本を見た時、その特殊性と近年さまざまな意味で閉じる方向に向かっている日本について、度々考えます。それはインターネットという仮想空間に翻弄されている現代人にとって、世界に向かって閉じること・開くこととはどのようなことだろうか、という問いとも重なります。

新作の織物には、鎖国以前の欧州の織物、出島の時代に作られた地図オランダ東インド会社のロゴ、隠れキリシタンの更紗模様、江戸ー明治期の作者不明のスケッチ、明治の開国時の英語辞書、欧州の時制を学ぶための時計、意思疎通のための絵文字、言葉によってAI画像生成されたイメージ、などが散りばめられています。謎解きのような、「読む織物」として。

 

手塚愛子
2023年12月

Certainty / Entropy (確実性とエントロピー)シリーズについて

手塚愛子

Certainty / Entropy シリーズは、2014年にエルメス・シンガポールでの個展の際に制作されました。私自身がこの4種類の織物のためのデザインを制作し、南オランダのティルブルフという街の、織物美術館の中にある工房「テキスタイル・ラボ」の職人の手により織られました。そして、再び私自身の手でその織物を解いていくというプロジェクトです。
自分自身で織物をデザインし、その織物を用いて作品を作ることは、私にとって長年の夢でした。私の作品制作における「解体し、再構築する」というコンセプトに厚みを与えるものになると思われたからです。その翌年には再び「Certainty / Entropy (England 6)」という同シリーズで、織った織物を解かずにそのままの織物として見せるインスタレーション作品を制作しました。金糸で織られた織物の裏側に現れるシンボルを、より明確に見せることが狙いでした。

この4種類の織物は、20世紀のペラナカン(シンガポールのローカル文化) 、16世紀のイギリス、8世紀の日本、18世紀のインド、このそれぞれの地域と時代から、織物もしくは染物の文様を引用しています。また、この作品のもう一つの要素として、現代社会で使われている記号(シンボルやマーク)を用いています。@(アット)マーク、©(コピーライト)マーク、バイオハザードマーク(生物的危険を表す)、オーガニック食品のマー ク、原子力発電のマーク、ピースマーク、などを、前述の伝統的な文様の中に滑り込ませており、それら過去と現代の層が絡み合う織物が、最終的に解かれています(2014年のシリーズ)。「Certainty / Entropy (England 6)」(2015年)では、裏側にくっきりとそのシンボルやマークが浮かび上がります。

2014年1月、このプロジェクトのためにシンガポールを訪れた折、私はペラナカンという名の文化に初めて出会いました。ペラナカンとは、シンガポールの一つのローカル文化の総称であり、裕福な華僑とマレーシア人もしくはインド人の混血から産まれた文化のことを言うそうです。細かいビーズワークが有名ですが、ペラナカンはその色彩や建築など、生活形態の総称を意味するそうです。

シンガポールはイギリスによる数百年に及ぶ統治の影響が色濃く残る地域です。ペラナカンのビーズワークやテキスタイルも、イギリスもしくはアイルランドからの影響が強く見て取れ、その文様の構成は明らかに西洋的であるのに、よく見ていくと、その細かい文様の中には、パイナップルや蝶々、トンボといった、西洋の織物の文様では見かけない、南国のモチーフが織り込まれています。私はペラナカンのテキスタイルワークを目の前にし、「まさに歴史が織り込まれている」と強く感じたのです。

そのような文化の融合は世界各地の造形物に見て取ることが出来ますが、ペラナカンでは特に、被植民者でありながら非常に楽天的に植民者の文化を取り入れ、自分たちのルーツも軽やかに入れ籠んでいく鮮やかさがあり、特別な新鮮さがありました。それは第二次世界大戦における日本軍侵攻以前に続いていた、イギリスの統治の仕方にも関係しているように思えます。私はこの出会いを機に、ペラナカンのテキスタイルワークの文様を新しい作品に引用することにし、そこに、シンガポールの歴史に深く関わってきたイギリス、インド、日本の伝統的な文様を絡めることにしました。

現代を生きる私たちは多くの記号やシンボルに囲まれて生活していますが、それらが意味することが多様であることはもちろんのこと、様々なシンボルが混在する世界は大きな矛盾を抱え込んでいると感じることがあります。一方は平和をうたい、他方では個人の(金銭的な)権利を主張し、あるものは生物的危険を注意喚起しながら、一方では健康という「商品」を主張する。これらの種々多様で一貫性のない記号の氾濫は、私たち人類が生み出したものであり、私たちの奥に潜む欲望と直結しているように思えます。

古代世界における装飾の意味はシンプルで、大体が「多産」「豊穣」「安全」という三つのカテゴリーで説明できるとよく言われます。しかし、古代の人々の生活や欲望も同じくシ ンプルだったのでしょうか?私にはそうは思えません。彼らも現代の私たちと同じく、矛盾した欲望を抱えながら葛藤し、生きていたのだと思います。近代以前の権力者は、なぜ豪華な織物を作る欲望を持ち、それを人々に見せつける必要があったのでしょうか。その衝動は、彼らが常に、自身の権力を失う不安に駆られていたために起きたのではないでしょうか。織物や装飾が豪華になればなるほど、権力者の不安は大きく深刻だったとも見て取れ、そこには目の前に見えているものとの反転が起きています。また、近代以前の装飾品の完成度には目を見張るものがありますが、それに携わった職人や労働者は、権力者の命令に背くことはできないという現代とは違った緊張感が造形物に乗り移っているとも見て取れ、ここにも「ただ単純にシンプルな欲望しかなかった」とは言いがたい、反転した状況が想像できるのです。

両義的な問題や欲望について葛藤することは、人類にとって普遍的であると言えると思います。私がこのプロジェクトで引用した過去の織物を織った人、デザインした人たちはすでに亡くなっていますが、私は彼らに対する想像力を常に持っていたいと思います。私はこれらのリサーチから、過去の織物と現代的なシンボルを共に織り交ぜ、自分自身の織物を織ることを決めました。そしてその織物は再び作者の手によって解かれることにより、お互いが溶け出すのです。
この織物は、私の、あるいは私たちの織物となり、私の死後のずっと先の世界で誰かが見つけ、私たちの時代を想像するかもしれません。私が博物館や書物で出会う織物や造形物が、同じく私にとって、そのきっかけであるように。

(EN) What to reweave?

申し訳ありません、このコンテンツはただ今 アメリカ英語 のみです。

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて

アーティスト・ステイトメント(個展「Certainty / Entropy」エルメス・シンガポール, 2014年)

In 2014, April

この時代の織物を残しておきたかった。私が見ている織物を作った人はすべて死んでしまったが、私の作品もまた、私の死んだあとに私たちの織物として残るかもしれない。

 

手塚愛子
2014年4月 ベルリン

Ghosts Speaking to Me Under Electric Lights

This text was written on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in January 2013.

Over the years I have become increasingly fixated on fabrics, especially those preceding the 17th century and the ancient eras. When visiting fabric museums, I often wonder how the early textile artists made such exquisite pieces without electricity. It is apparently now impossible to remake 8th century Japanese fabrics, even if we were to use the latest technology, because the techniques have since been lost.

When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns. The greater the display of wealth, however, the more we could feel the rulers’ fear of losing power and control of their workers.

I am interested in loosening up these invisible narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules that I have developed over time: untying and unwinding fabric, revealing its structure, juxtaposing time and place, to name but a few. I do not cut or paste, or add or subtract matter. By unravelling and recomposing the structures and stories hidden within the material, I try to capture overflowing time and the continuous process of metamorphosis.

When I hear the ghosts of the fabric whispering within me, I feel like I could disappear and be consumed by the great whirl. It is an ambivalent feeling that consists of both fear and the pleasure of my ego melting away. Inevitably, I must return to the present day in my studio and continue to think about what to create with my hands under electric lights.

Aiko Tezuka
Berlin, January 2013

Artist Statement in 2012, June

This text was written to introduce myself on the occasion of entering Künstlarhaus Bethanien, the international residency program in Berlin.

Deconstruction of everyday material in the context of the history of painting underpins my work, often realised as objects and installations. The ways in which the world is constructed usually remain invisible or mysterious. Much time, process and material are woven into an object, whether natural or man-made, that embodies a function or story. I am interested in loosening up such readymade narratives to unravel forgotten histories or discover new plotlines. Pervading my creative processes are techniques and rules I have developed over the years: untying and unwinding the fabric; revealing the material structure; juxtaposing time and place; transforming opacity into transparency, and no cutting or pasting, addition or removal of material to maintain continuity, to name a few. By unravelling and recomposing the layers, structures and stories hidden in the material frameworks, I aim to facilitate the reexamination of the subjective nature of time and the process of metamorphosis.

Aiko Tezuka
Berlin, June 2012

プリズムとラグが示すもの − 織物を解くことの解釈

今回の展覧会では、「虹」ということばがキーワードであるという提案を受けました。私は「虹」と自分の作品の関連性について意識したことはありませんでしたが、展覧会タイトルを練る段階において、考えたことをここに記しておきます。

虹とは、普段は見えていない複数の色が光の屈折によって出現したものですが、「プリズム・ラグ」という展覧会タイトルが示す「プリズム」は、虹を発生させる構造体、装置のことです。このことから、プリズム=虹を発生させる装置=見えないものを可視化する作品、と言い換えることが出来ます。また、「タイムラグ」や「ジェットラグ(いわゆる時差ぼけ)」という言葉でよく使うように、「ラグ=lag」とは「あるものとあるものの間に起こるズレ」を指し示します。光の屈折により虹が発生する現象を「ラグ=ズレが生じている」と言えるのはもちろんですが、「プリズム」という言葉にさらに「ラグ」という言葉を付加しようと思ったのは、この「ズレ」という観点が私の作品制作にとって非常に重要な部分を占めるからです。

私が織物を解き、そして解かれたものから新たな何かを再構築する過程で見せていくものは、出来上がってしまったように見える歴史への視線を少しだけ「ズラす」ことができないか、という提案を含み持っています。時間は不可逆だから、人は二つの選択肢を同時に選ぶことができない。身を切るように、一つしか選ぶことが出来ない。一つを選ぶと言うことは、選ばれなかった多くの可能性たちが葬られるということです。そして、時間の矢とともに出来上がったものが織物だ、と言うことができるとしたら、その織物は、おびただしい数の決断、捨てられた可能性の蓄積だと言うことが出来ます。そして取捨と決断の蓄積である織物を解くことは、選ばれなかった可能性について考えること、しっかりと織られた糸目の間に見え隠れする透明なものたちを見ようとすること、私たちが偏見のなかでしか生きることができないことを自覚することです。この透明なものを凝視しようとすることで、私たちは一瞬の自由を獲得することができ、それが次の選択に力を与えます。

この展覧会で同空間に展示されるモネ、シニャックという印象派・新印象派の画家たちと、私たちの間には100年の隔たり(ズレ)があります。パースペクティブを解体し主体的な視覚の獲得へ挑戦した彼らの時代性と、現在の私たちの状況との間にはズレがあると言えるかもしれません。しかし、「見えていないものを出現させる装置を追い求めたということ」という視点先の意味での「プリズム」という言葉によって、双方は深く結びつけられていきます。

 

手塚愛子
2011年 ロンドンにて

In-between The Surfaces And Layers (2011)

Artist Statement in 2011

I have been making my artwork by unravelling ready-made fabrics to reveal what is underneath the layers of the materials. Also, I have been making embroidery work showing the reverse side of the embroidery. How the world is constructed, through time and history, does not often appear so clearly on the surface. I am interested in both the surface that we can see and the layers that are normally invisible to us.

My interest lies in the notion of structure and how a surface and appearance emerge in relation to their structures. Time is woven into a piece of fabric as history. This metaphor suggests that various layers and stories are hidden in the framework, which we cannot see from the surface. By untying and deconstructing the fabric, we can revert this process, in order to reveal the layers of its structure and its past. This process of unravelling the fabric aims to rediscover and reveal what is lost and aspects that we could not see before. As a consequence, we have the opportunity to imagine and see time and the process, which we do not usually register when we inspect only a surface. This act of untying or deconstructing the fabric reverts the surface to its original raw material and reveals its history.

My background is in painting wherefrom I developed my interest in the concept of layers. For me, everything has layers, which enfold two meanings. One is the material structure. For example, a painting on a canvas will usually consist of multiple layers to give an image despite the fact that we can only see the surface – the last layer. The second meaning is that ‘art’ itself is a combination of history and time. Our predecessors always influence us, therefore our work is an evolution of previous knowledge and layers. A painter cannot make a painting without the knowledge of the painters prior to him.

From this perspective, the painting structure can be seen as weaving. Furthermore, everything I see is akin to a fabric and the act of weaving. History, politics, books, people, speech, food, the entire world has the structure of fabric. These ideas inspired me to choose the structure of fabric and embroidery as my main theme, in order to loosen and peel off its layers.

In 2007-08, my ideas evolved from untying and deconstructing the fabric materials, to reconstructing and transforming the work into something different. This process of deconstructing and reconstructing is about going back in order to rethink and create something new within the same structure.

I often feel that the world is becoming more regimented and suffocating in that we are losing aspects of our humanity, such as slowness and ways of thinking about our lives. One might say that it is because of capitalism and globalization. I would like to investigate what we should loosen and undo what or how we ought to rebuild. I question from what point in our history we should re-start and which direction we should go. This continuous act of questioning is not only relevant in the world of art, but the same analogy can be made in religion, economy and science.

I am not entirely certain about the answer to the question, therefore I will continue to endeavour finding my own perspective through my work.

Aiko Tezuka
London, September 2011

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。

機能する(或いはしない)袋

(アーティストステイトメント、国際芸術センター青森の展覧会のために)

袋の底が破けて中身がこぼれだすようなイメージが、繰り返し立ち現れます。

複数のなにものかをひとまとめにし、区別し、名付け、持ち運び、管理することのできる袋は、たとえば私たちのからだの延長とも言えるでしょう。
しかし、「うまくいく」はずだった袋はその底がたびたび破れ、持っているはずだったもの、持ち続けていたかったもの、名前を与えたものたちが、ぼろぼろとこぼれ落ちていきます。

さて、今回私は幸運にも、昔この地域で使われていた布製の袋、ふとん、こぎん刺しを見せてもらうことができました。まだ布がとても貴重だったころの、売るためにではなく自分たちで使うために作っていたころのものです。
幾重にも、何代にも渡ってつぎはぎされ修復された袋を見ていると、わたしたちがもう思い出せないであろう何かが、そのなかに入っているように思われました。さらに、破ける底を何度も補修しようとしたその痕跡は、先の袋のイメージ(名前の分割からこぼれ落ちてしまうものに姿を与えようとすること)と、重ね合わされました。

理想の袋があるとすれば、一度に選ぶことができない複数の可能性と、名づけることのできない何ものかの気配に、とりあえずの形を与えるためのものでしょう。しかしそれは同時に、底が抜けてあふれ出す「不可能性のふくろ」です。瞬時にかすめ、たちまちのうちに消え去ってしまう、機能しない袋でもあるのです。

 

手塚愛子
2008年 青森にて

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

1
衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

2
しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

3
彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために