Statement

「落ちる絵」について

私は日本という国の美術大学で、油絵科で学んで、卒業して、美術作家をやっているわけですが、これらが自分を紹介する言葉であるにもかかわらず、この短い文のなかに入っている意味内容に対して、いつも何かずれのようなものを感じています。細かいことを言っていくと、「美術」ということから始まってしまうのですが、美術という形式まで失ってしまうと、何もできないことになってしまうので(日本語を疑ってしまったら日本語で考えたり話したりできないように)、美術という土台はとりあえず選択した、としています。

しかし、油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン、書、などという名詞化された世界と、実際にものが作り出される場所は、かけ離れているという気がいつもするのです。

私は、人間の社会で生きているので、自分を紹介したり、自分の専門の分野が何かを言わなければならないことが多々あるのですが、多少の諦めはありつつも、それでも言葉が見つからない、という状態に出くわす場面が今までに何度もありました。どんな美術をやっているの?油絵科を出たのに刺繍をしているの?テキスタイルの分野になるのね、というコメントや、あらかじめ決まったカテゴリーを選択して自己紹介しなければならない場合などは、「絵画」でも「彫刻」でも「工芸」でもない私の作品は、選ぶものがないのです。これは実際ほんとうに困っていて、そのことを自分なりに説明したとしても、とりあえず○○にしときます、という返答があるとすると、それは私にとって屈辱的なことでさえあります。

長い長い時を経て、また、とても広い世界で、たくさんの人がものを作り、多くの造形物が生み出されてきました。それは道具であったり、誰かのためのものであったり、気分を高揚させるための装飾であったり、「美術作品であること」が目的のものであったり、時代も宗教も気候もその時の権力者も、実際に制作に携わった人もいろいろです。文様や、装飾や、道具や、美術の本をそれなりに読みましたが、そこにはいつの時代であったとか、何のために作られたとか、どのように機能したとか、その周辺の背景のことが推測も含めて書いてあるのですが、「なぜそのようなものが生まれてきてしまったのか、造形が生み出される最終的な謎」については、本は教えてくれません。

しかし私は、なぜ造形が生まれてきてしまうのか、という、その甘美で難しい謎から離れることができません。その想像力をかき立てるものは、多分、ほんの一瞬の出来事のみに対してフォーカスされています。造形物に対して語られる説明文は、“その一瞬”を想像する緊張感の前においては、途端に色あせてしまいます。

今回、熊本市現代美術館で展示する作品は、大きな布に、過去の様々な造形物から引用した形が刺繍されています。カタログに載っているプランスケッチを参照していただけると思うのですが、刺繍図案には、名画から切り取った服の襞、古代の織物の柄、編み物の本から採ったイラスト、あやとりの方法の図、古代の刺繍、民家に置いてある土着の信仰の神様、多くの人が信じる神様の服の襞、陶磁器の装飾、山水画、王様の宝物、埴輪、などなどが集められています。これらは、先に書いた理由から、「その、ただ一瞬」への想像力によって選択されました。こう書いてしまうとあまりにも適当のように思われますが、その適当さ故に確実な手段として、私にはこの方法を選択しました。

刺繍の糸は切られることなく布の裏側に長く延び、背後にはまた別のかたまりが作られています。私が示唆しているのは、すべての造形が同じ根源を持っているとかいう単純なことではありません。ただ、由緒正しいものも正しくないものも、高貴なものもそうでないものも、名づけられたものもそうでないものも、それらが生み出される時の「その一瞬のできごと」への想像力を介して、もうひとつ別の様相、変容を見せる装置を作る必要があったということです。

今考えている次なる作品は、糸の端と端が、意味内容において、もう少し溶け合っていくような関係性を持つ作品に向かっていくかもしれない、ということです。