Statement

絵画の刺繍性/刺繍の絵画性

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衣服の端っこ -袖口とか襟ぐりとか裾、身体への入口- の部分に、むかし刺繍を施したのは、そこから悪魔が入り込 んだりしませんように、とのおまじないが込められていたそうです。
刺繍は、一本の糸が繋がりながら布の表面に或る像を作るので、始めや終わりの玉結びを解いたり、あるいは像の途 中の糸が切れてしまえば、その像はぷつんと壊れてしまいます。
この、いつでも素材に戻ってしまうかもしれない技法は、つねに「もろさ」と隣り合わせです。まじないをかけられて少しずつ縫われた像は、その壊れやすさゆえに、まじないをかけた者の想いの強さや質を、見る者に繰り返し想起させたのだと思います。私にとって、このことは絵画的です。
また別の話ですが、あるとき梵字の刺繍の、その表裏が写された写真を見た時に、私はかなりの衝撃を受けました。一本一本の糸は表と裏で正確に対応し、対応しつつもそれらは全く異なる像を持っている。あの写真に写された刺繍の表裏は、私にとって絵画的であったし、私の絵画への入口でした。
さらに別の話ですが、私は刺繍に関する特別な教育を受けたわけではないので、刺繍をするときには刺繍図鑑のよう なものを拡大コピーして、見様見真似でやってみます。すると六枚あるはずの花びらが五枚しかなかったり、雌しべが一本足りなかったり、もっと細かいレベルでいい加減な部分があったりして、「ずるっこしたな」と気づく時があります。
そのようなとき、その刺繍を縫った遠い昔の人が、すぐ隣にいるような感じがします。
私が刺繍に惹かれているこれらのことは、刺繍という技法が、ある像を形成しながらいつでも素材に -像を作ろうとする初めのところに- 戻ってしまう危うさを持ち、さらにまた、像を形成するまでのプロセスがあらわになってし まう、という性質に因っています。
赤を塗ったら青を塗れない、正しい一つの面を持ってしまう絵画に対して、その下に潜んでいる見えない層を、どのように引き上げて共存させるか。しかもそれらは私の想像によるものだけではなく、ある対応関係を持って現れてくるようなもの。そのような問いに対して、刺繍はひとつの方法となりました。

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しかし刺繍は私にとって絵画的であっても、一般的には絵画ではない。けれど、そのことはわりとどうでもいい。絵を 描いている時にはその構造では成し得ないことを考え、絵から外れたものを作っている時には絵のことを考えている。
その相関関係、往還運動のなかで、双方を股にかけた作品が作られる。刺繍性を持つ絵画。絵画性を持つ刺繍。

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彫刻家の描く絵が好きです。彫刻家は未だ現れていない物体に向かって、まっすぐにその意識が向いているけれど、そ の過程で必要にかられて生まれてくる絵は、何か、正しく絵が要請されているという感じがします。
私の絵を正しく要請すること。それは、「他の何ものでもない絵画」という誰かが言ったようなことを自明の前提にし、それ自体が目的となったところに甘んじていては、生まれて来ないことだと思います。
「他の何ものでもない絵画」「絵画にしか成し得ないこと」- 絵の前に立った時に、初めてそう呟いたり思ったりするこ とは幸せなことです。けれど、作り手が事前にそのことを設定する/そうゆうものができますよと前提にすることだけ は、自分にとっての禁じ手としよう、という思いから、今に至ります。

 

手塚愛子
2007年 京都にて
「『森』としての絵画 ー < 絵 > のなかで考える」展 岡崎市美術博物館 のために