日本の芸者や農村の風景など典型的な日本のイメージが描かれた薩摩ボタンは、ジャポニズムが流行していた欧州において「日本の美しいボタンだ」と大いに売れた。大いに売れることを知った日本人は、戦争資金を稼ぐためにたくさんの薩摩ボタンを作った。しかしながら当時は、全ての日本人は着物を着ていて誰一人ボタンを使っていなかった。私は自身の「アイデンティティを振る舞うこと」と、その「必要性」について考えていた。それは終わった話ではなく私自身もそのように振る舞うことがあるから。
この作品の右ウィングには上述の「薩摩ボタン」が、左ウィングには17~19世紀の西洋のボタンが描かれている。明治の日本人が自らのアイデンティティを意識しながらも必死に擬態しようとした西洋である。左右の織物は緩やかに解かれ作品中央において大きな一つの網目上の構造を形成している。異なる文化との出会いと憧れ(それはお互いに)、誤解、生き延びるための打算。それらを受け止めるための籠のような構造体として。
手塚愛子
「自分自身が針と糸になる」—手塚愛子の手法と思考— より抜粋 Text by 正路佐知子(当時・福岡市美術館学芸員、現・国立国際美術館主任研究員)
現代美術の領域において既製の織物を自覚的に用いてきた手塚は、美術と工芸(工業/産業)または装飾という領域の関係についても考察を続けてきた。織物と絵画は、どちらも人間が作り出した表現、形態であり、制作にかける途方もない時間や労力を要し、そこに描出される絵柄は観る者を魅了し、啓蒙し、あるいは所有者の権力を披瀝するために用いられてきたという点で共通点がある(「織物」が衣服等生活に用いられる場合も同様の指摘は可能だろう)。そして日本において美術と工芸が分化してゆくのは、「美術」という概念が輸入された明治時代のことだった。
ところで明治に入る前年の1867(慶応3)年、パリで行われた万国博覧会に日本から江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出品をしていた。この時注目を集めたのが、薩摩藩が満を持して出品した薩摩ボタンであったという。直径わずか数センチの高価な白薩摩地に、日本情緒あふれる風景や着物姿の女性が美しく絵付けされたこの華やかな陶製ボタンは、輸出先のジャポニズムブームに目をつけ、西欧の期待する伝統的な日本イメージが意識的に盛り込まれている。当時、ボタンは日本の着物には不要な装飾品であった。海外に向けセルフ・オリエンタリズムを演じるありようは、西欧との出会い間もない近代日本の状況をよく表わしている。
《必要性と振る舞い(薩摩ボタンへの考察)》で手塚がデザインした織物は、2009年の作品《落ちる絵》や2013年の《Ghost I Met》でも引用されていた飛鳥時代の刺繍による帳、天寿国繍帳が下敷きにされ、その上に水月観音菩薩半跏像の襞、その襞の間から薩摩ボタンが覗く。7世紀の刺繍織物、13世紀の彫像、19世紀の西欧への輸出用装飾品という複数の時代の造形物をレイヤー構造に編集してゆく繊細な作業ののち、デザインデータは織り機用に変換される。手塚は、技術者とともに画像ピクセルと糸一本一本を比較しながら、思い描いた画を織物に表わすべく画像を調整し、この織物を織り上げた。
本作において薩摩ボタンの対称を成すのは、ヨーロッパの造形によるレイヤーである。イタリアの大理石彫像の衣服の襞からは、薩摩ボタン制作時に参照されたであろう、本家本元の、18〜19世紀のヨーロッパボタンが覗く。