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「自分自身が針と糸になる」—手塚愛子の手法と思考— Text by 正路佐知子(当時・福岡市美術館学芸員、現・国立国際美術館主任研究員)

2019年9月

過去と現在を織りなおす
手塚愛子は学生時代、絵画の探求のなかから織物に着目し、その解体と再構築という独自の手法を編みだした。それは当初、経糸と緯糸を組み織ることで多様な模様を描く織物を、絵具層で構成される絵画に見立てるという目的から生まれたかもしれない。しかしながら糸をほどいてゆくことで、描き、織られた時間をたどりなおすことは、物理的な構造だけでなく、それを形作ってきた制度や歴史に目を向けることでもあった。織物から糸をほどき、再構成し、刺繍する行為は、過去の出来事と現在を、あるいはそこに流れる時間を織りなおし、編みなおし、観る者に視覚的触覚的に伝える試みとも言い換えられる。
たとえば2014年に発表された《Certainty / Entropy(確実性とエントロピー)》のシリーズでは、手塚がデザインし、オランダ・ティルブルフのテキスタイル博物館テキスタイルラボの技術者によって織られた織物が用いられている。地には20世紀プラナカン(シンガポール)、18世紀インド、16世紀イギリス、8世紀日本において作られた伝統的な織物や装飾文様が引用され、その層のなかに現代人にとって馴染み深いシンボルマークが忍びこむ。今では「装飾」と分類される伝統的な織物文様と、現代社会における記号は、どちらも人間の欲望、願望、注意喚起、権力等を広く示すためのものでもあった。混沌を描く織物が手塚の手によってほどかれ、文様もシンボルも溶解し、シンプルな糸へと還元されている。
2018年に発表された《Do you remember me – I was about to forget》では、明治時代にハワイに移住し砂糖農園に入植した日本人の姿が、やわらかく光を通すオーガンジーに機械刺繍された。欧米人によってハワイは大規模にプランテーション化され、日本人を含む多くのアジア人が新天地を求めハワイに赴いていた。彼らは財を成したら帰国するつもりだったが、現実は安い労働力として厳しい条件下での労働を強いられ、彼の地を離れることは能わなかった。ガラス窓での展示を意図した本作は、薄い布や刺繍の奥に広がる現在の此処の風景と、ハワイ、そして日本人移民の姿が重なりながら、記憶と忘却の間を揺れ動く。
本展で初公開となる手塚愛子の新作のうちの1点、《華の闇(夜警)》では、17世紀オランダの画家レンブラント・ファン・レインの《夜警》が引用される。夜警という通称は、実の主題には「;警邏もなければ、夜もない」にもかかわらず、巧みな光と闇の描写に魅入られた人の感動を伝えるが、本作は、《夜警》の画像からフォトショップ(画像編集ソフト)が機械的に黒=闇と識別した箇所が、インド発祥の捺染布「更紗」に描かれた異国情緒あふれる茜色の花模様に置き換わっている。花々を追いかければ、オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie: VOC)のマークも読み取れよう。《夜警》が描かれた時代、VOCが独占したアジア貿易において、インド南東部コロマンデルで製造された更紗は各地で特に好まれた。VOCはコロマンデルの地方領主や染織技術集団と契約を結び、多くの更紗を作らせたという。その更紗は大航海時代に交易アイテムとして海を渡り、インドネシア、フランス、イギリス、オランダ、そして日本でも愛された。美術史上に燦然と輝く巨匠の名画と、美術の文脈からは排除されたが多くの人を魅了し当時世界経済に不可欠であった染織。同時代に生まれた絵画と染織が同一面に共存する本作もまた、手塚がデザインをし、テキスタイル博物館のラボで織られた。

 

モダニズムと日本
現代美術の領域において既製の織物を自覚的に用いてきた手塚は、美術と工芸(工業/産業)または装飾という領域の関係についても考察を続けてきた。織物と絵画は、どちらも人間が作り出した表現、形態であり、制作にかける途方もない時間や労力を要し、そこに描出される絵柄は観る者を魅了し、啓蒙し、あるいは所有者の権力を披瀝するために用いられてきたという点で共通点がある(「織物」が衣服等生活に用いられる場合も同様の指摘は可能だろう)。そして日本において美術と工芸が分化してゆくのは、「美術」という概念が輸入された明治時代のことだった。
ところで明治に入る前年の1867(慶応3)年、パリで行われた万国博覧会に日本から江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出品をしていた。この時注目を集めたのが、薩摩藩が満を持して出品した薩摩ボタンであったという(ref.1)。直径わずか数センチの高価な白薩摩地に、日本情緒あふれる風景や着物姿の女性が美しく絵付けされたこの華やかな陶製ボタンは、輸出先のジャポニズムブームに目をつけ、西欧の期待する伝統的な日本イメージが意識的に盛り込まれている。当時、ボタンは日本の着物には不要な装飾品であった。海外に向けセルフ・オリエンタリズムを演じるありようは、西欧との出会い間もない近代日本の状況をよく表わしている。
新作《必要性と振る舞い(薩摩ボタンへの考察)》で手塚がデザインした織物は、2009年の作品《落ちる絵》や2013年の《Ghost I Met》でも引用されていた飛鳥時代の刺繍による帳、天寿国繍帳が下敷きにされ、その上に水月観音菩薩半跏像の襞、その襞の間から薩摩ボタンが覗く。7世紀の刺繍織物、13世紀の彫像、19世紀の西欧への輸出用装飾品という複数の時代の造形物をレイヤー構造に編集してゆく繊細な作業ののち、デザインデータは織り機用に変換される。手塚は、技術者とともに画像ピクセルと糸一本一本を比較しながら、思い描いた画を織物に表わすべく画像を調整し、この織物を織り上げた。
本作において薩摩ボタンの対称を成すのは、ヨーロッパの造形によるレイヤーである。イタリアの大理石彫像の衣服の襞からは、薩摩ボタン制作時に参照されたであろう、本家本元の、18〜19世紀のヨーロッパボタンが覗く。

 

出会いなおしと織りなおし
本展の新作の制作は、株式会社ワコール(日本での個展会場となるスパイラルの親会社にあたる)の出捐により設立された研究機関の公益財団法人京都服飾文化研究財団(KCI)の協力を得ている。KCIから提供されたコレクション目録のなかから、手塚は収蔵されて間もない一枚の織物に注目した。それは京都の老舗織物会社である川島織物(現・株式会社川島織物セルコン)によって、1905-1925年頃に織られたとされるテーブルクロスである。手塚がこの織物に惹かれたのには大きく2つの理由があるだろう。まず、本品が明治期に織られたものであること。そして、川島織物セルコンは手塚が2008年の作品《層の機》《層の絵−縫合》(東京都現代美術館所蔵)、2013年の作品《Ghost I met》の制作に際し、協力を仰いだ会社であることだ。
江戸末期の1843(天保14)年、初代川島甚兵衛によって呉服悉皆業として開業した川島織物は、二代目川島甚兵衛によって大きくその活動を展開させた。二代目甚兵衛は1886(明治19)年の欧州視察のなかでゴブラン織の調査を行い、綴織の技術向上に生かした。翌年には「皇居御造営御用織物の調整」の特命を受け、1888(明治21)年には明治宮殿の室内装飾を供している。それは日本国内で初の室内装飾業であったという。
KCI所蔵のテーブルクロスの制作年および発表年についての詳細は明らかではないが、同種のテーブルクロスの万国博覧会への出品歴から、1900年代初頭の作ではないかと考えられている。テーブルクロス自体、欧化政策のなかでテーブルマナーとともに日本にもたらされたものだが、二代目甚兵衛は1900年のパリ万国博覧会よりテーブルクロスを含む室内装飾専用の織物一式の製作・発表を開始している。川島は「呉服だけでは伝わりにくい大きくても精緻である技術力」を世界に顕示するために万国博覧会等のイベント出品用として室内装飾織物を重視していたことが先行研究において指摘されている。
100年以上前に京都の老舗・川島織物によって織られたテーブルクロスが、京都の服飾研究機関のKCIに所蔵され、同じく京都に本拠を置くワコールによって設立されたスパイラルでの個展で発表する作品を準備していたという機運。手塚は川島織物セルコンに、このテーブルクロスの再製作を持ちかけた。それは時を隔てた手織りと機械織りという技術の再会とも言えるだろう。ほぼ原寸大で再現された本展出品作《京都で織りなおし》は、手塚が引き寄せた奇跡のような出会いと、明治期の日本の「美術工芸」のありよう、すなわち美術と工芸の技術革新と対西欧への両義的態度を振り返る、コンセプチュアルな作品である。

 

表と裏、その揺れ動き
1869(明治2)年200年余りにわたる鎖国ののち開国した日本。世界の中心たる西欧諸国と対等にある日本をアピールするため、明治政府は西欧の価値観に自らを適合させてゆく欧化政策をとる。劣等扱いをされぬよう、植民地化されぬよう、統治体制はもちろん外観や習慣に至るまであらゆる欧化が急務とされた。たとえば、それまで天皇が単独で応じていた儀式や外国要人との会見にも、西洋式に1872(明治5)年から美子皇后が同席するようになる(ref.2)。加えて服装も、「権力としての列強に日本の『文明』を説明し説得するという国際政治の延長線上」にあった。
1873(明治6)年、「各国帝王の服制を斟酌して」天皇は断髪をし、西洋式の軍服を正装とした。宮中の女性の服装は十二単の略装といった公家の伝統的な装束だったが、男性の服制更改に10数年遅れて、1886(明治19)年6月23日、宮内大臣であった伊藤博文から婦人服制についての通達が皇族や大臣他に向け出される。皇后は同年7月28日に洋服を着用、同月30日には初めて公の場で洋装を披露する。1887(明治20)年1月17日には皇后から女性の洋装を奨励する「思召書」が内閣各大臣、勅任官、華族に下された。女性の洋装化に頑なに反対した天皇と比べ、「国ノ為メナレハ何ニテモ可到」と述べたという皇后の態度は、わたしたちの目には時の変化を見据えた先進的且つやわらかい「新しいタイプの近代的皇后像」として映る。1883(明治16)年にはすでに欧化政策の一環として、外国からの国賓や外交官との社交場である鹿鳴館が落成しており、のちに鹿鳴館スタイルと呼ばれるような洋装は一部で取り入れられていたが、洋服をまとった皇后の姿は、日本の社会に大きな影響力があったことは疑いない。最も知られている美子皇后の洋服は、おそらく明治末期の新年朝賀に着用したとされる大礼服/マントー・ド・クール(共立女子大学博物館所蔵)(ref.3)だろう。深い緑のビロード地に大中小の菊が見事に刺繍された生地には、すべて国産の素材と技術が用いられているという。それは洋装化にあたり皇后が願ったことでもあった。
時代に翻弄されながらも覚悟を持って自ら進んで変化に応じた美子皇后。手塚は、近代日本の女性の洋装化をめぐり皇后が置かれた状況に思いを馳せ、大礼服のデザインを解体し、ちょうど宮中の洋装化から間もない時期に皇后が詠まれた2首とともに再構成し、テキスタイル博物館テキスタイルラボで重厚感ある織物《親愛なる忘却へ(美子皇后について)》を織り上げた。

「外国のまじらひ広くなるままにおくれじとおもふことぞそひゆく」
(外交が深くなればなるほど、遅れまい、追いかけねばと思う)

「水はうつはにしたがひてそのさまざまになりぬなり」
(水は入る器の形によってさまざまに形を変える)

当時、皇后の心の内はいかがなものだっただろう。この2首の歌は必ずしも、直接欧化政策や洋装化についてのみ言及したものではないが、不安や躊躇、あるいは焦りといった揺れ動く心持をも読み込むこともできる。

 

手塚愛子の手法
既製布の糸を気の遠くなるような手作業によって引き抜きダイナミックなインスタレーションへと変容させる手塚の作品は観る者を惹きつけてきた。手塚はヒエラルキーがいまだに存在する芸術の領域において工芸的装飾的と位置付けられる手法を用いながら、しなやかにそしてしたたかに、モダニズム美術あるいは近代それ自体を考察し、わたしたちに問いかける。
本展のために用意された新作においては、手塚愛子の作品の代名詞とも言える織物の糸を解き再構成し、刺繍を施す手仕事的軌跡が必ずしもすべてに見られるわけではない。しかしながら、織物のデザイン段階において、手塚は「自分自身が針と糸になるような感覚」を味わったと語る。今回新たに織られた織物の厚み、技術者との協働作業のなかで適切に選択されたさまざまな質感の糸の波や重なりは、物理的にほどかれる前から、絵画と織物すなわち美術と工芸を、日本と西欧を、近代と現代を、一度解き、再検討し、編みなおす手塚の思考そのものを体現しているといえよう。
手塚は本展覧会のタイトルを「親愛なる忘却へ」とした。過去を、歴史を振り返る時、わたしたちはその記憶を、痕跡をたどる。しかしながら、記憶と忘却は合わせ鏡のようなもので、記憶の背後には忘却された何ものかが必ず存在する。だからアクセス可能な過去の痕跡だけではなく、不可視の忘却にも意識を向けたいという手塚の真摯な願いがこの言葉には表われている。忘却をめぐる物語はときに痛みを伴う。無意識の忘却もあれば、不可避の忘却もある。記憶を手繰り寄せるなかで、歴史を振り返るなかで、忘却に気づいたとき、それを美化し取り戻そうとするのではなく、その事例を生んだ状況を改めて見つめ、批判的に考察し、その過程を共有してゆくことが求められている。