Reference
「層という異界へ、あるいは回復のための練習」 Text by 日比野民蓉(当時・国立新美術館研究補佐員、現・横浜美術館学芸員)
色材を重ねて正しいひとつの面を完成させる絵画。塗りこめられ重ねられる層のひとつひとつが持ちあわせているはずの時間や物語は、確かにそこに堆積されてはいるものの、私たちの目に直接とらえられることはない。この、絵画を形成するレイヤーを文字通り解体し、視覚化する方法として、手塚は「織りとしての絵画」をうみだした。糸が織られることによって出来上がる布は、織りがほどかれることによっていとも簡単に原型の糸に戻すことができる。私たちのまわりに溢れるほとんどすべてのものが、実は元のすがたに還元できないという事実を考えてみれば、糸や布という素材は、非常に身近でありながらも稀有な存在であることがわかるだろう。
大学の油画科に在籍し、絵画というメディウムの構造に着目した手塚には、「織りとしての絵画」に先行し、現在まで継続している刺繍の作品群がある。絵具の代わりに、糸を用いてカンヴァスにかたちを描くことから、手塚の制作ははじまった。初期の刺繍作品では、像の描かれたカンヴァスのすぐ裏に素材となる(なった)糸がすべてさらけ出され、像の現れているおもてと、無数の糸が集まる裏を同時にみることができる。刺繍によって、のりで固められてしまう絵画とは異なるしなやかさを、糸と布という素材に意識した手塚は、おもてと裏、そしてその中間層という「異界」を共存させる織りの解体へと、制作手法を展開していった。
手塚の制作でほどかれる対象となる織物は、百年ほど前のアンティークの布から、ファストファッションブランドのスカーフ、手塚自身がデザインし新しく織られた織物まで、多岐にわたる。時代や地域、モティーフのさまざまな織物をほどきながらも、手塚の制作の中心は常に、私たちの手からこぼれおちていく不可逆の時間をすくいあげ、世界の構造と時間を解きほぐすことにある。
画面の中央部分だけを丸くほどいてしまう<Lessons for Restoration>は、パースペクティブの中心、つまり消失点を解体し、ぼやかしてしまう作品である。透視図法という絵画の約束事をあやふやにし、私たちのものの見方の「回復ための練習」を図るこのシリーズは、この度フィレンツェという地の現代の土産品がほどかれることによって、 その意味を強化させた。一方、<Certainty / Entropy>(2014)は、イ ギリスの植民地支配下にあったシンガポールで、イギリスと中国、インド、マレーなどの文化が混ざり合って形成されたペラナカンの図様を引用しつつ、あいだに現代的な記 号を組み入れた織物をほどいている。BIO マーク、リサイクルマーク、卵巣の簡略図、ピースマーク、放射能のハザードシンボルなど、現代社会をとりまく記号が金糸で織り込まれた同シリーズの《Certainty / Entropy (England 6)》は、今回、まばゆい裏面が あらわにされることにより、構築と再構築の循環をより劇的に表現することだろう。
本展のための新作《Dear Oblivion 1》(2015)では、クリュニー中世美術館に所蔵される《貴婦人と一角獣》とクロイスターズ美術館の《一角獣狩り》が参照され、豊かな自然の中で戯れる動物たちを背景に、天蓋が開かれて姿を現した泉、そしてその泉に伸びる二組の手が配されている。肥沃な大地、ひとが水で手を洗うこと、生命の根源である水を湧き出す泉に建てられた構造物の胴体が解体されていることなどはすべて、震災後の私たちに宛てられた「親愛なる忘却」のためのメタファーである。食という生命維持の根幹が脅かされることへの危機感は、ナチス台頭前の1920年代にドイツでつくられ、実際に使用された生々しい痕跡を残すテーブルクロスをほどいた《Suspended Organs (Kitchen)》(2013)にも共通する問題意識であった。
過去の織物やモティーフを解体することで、手塚は今現在の私たちのリアリティを、 視覚的に現前させる。そして、社会的、文化的、政治的、経済的なこの世界のありとあらゆる成り立ち、ひいては私たちの心理的構造を解きほぐすことと繋がろうとしている。 潔く整然と引き抜かれた糸の束は、中身をさらすというのに、少しのとまどいも感じさせない。そのあざやかさは、不気味さを伴いながらも、現実への希望を宿している。