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「手塚愛子」Text by 正路佐知子(当時・福岡市美術館学芸員、現・国立国際美術館主任研究員)
油絵科で学び絵画に取り組んでいた経験から絵画構造に関心を持ち、既製の織物の糸を解くことで、普段は見えない内側や織り込まれた時間を引き出していく。それが手塚愛子の作品を語るクリシェである。しかし彼女の関心がその構造のみに帰結するのではないことは強調しておいて良いだろう。糸を抜いてしまえばイメージごと消去可能な儚く危うい刺繍を用い、作品に意味を織り込むことで、近年の手塚の作品は豊穣な世界を紡ぎ出してきたと思われるからだ。
2007年頃まで手塚は日本古来の文様やケルト文様などを組み合わせ図像化し刺繍していたが、この頃のイメージの選択には、絵画の歴史や図像の起源、あるいは絵画/工芸という分断に対する違和感および関心が窺えた。2008年の《層の機》や2009年の《落ちる絵》でも、名画から切りとってきた図像や衣服の襞、編み模様、文様等を組み合わされ、絵画をめぐる問題意識が健在であることを示すが、2008年以降、身体の一部を刺繍することで手塚作品は一気にわたしたちのリアリティの傍らに降りた。たとえば《skim》では、液体をすくう手を象った赤い刺繍糸が床まで垂れ下がり、刺繍枠に張られた白布がまさに上澄みの如く存在し、表面だけに目をやりがちなわたしたちの現状を暗示する、というように。
刺繍されるイメージと糸を抜き刺しする行為、それによって暴かれる内部、という手塚作品の構造は、数年前の大きな出来事を経て浮上した不可視の驚異/脅威と結び合わされ、社会的意味を帯びながら複雑に絡み合うことになる。とくに2011年以降の作品においては、遠く離れた故郷の社会に対する違和感や疑念を読み込むことも可能だろう。たとえば2012年の《Lessons for Restoration (sewing up)》では薄く透ける布に縫い物をする複数の手が刺繍されるが、刺繍糸はすべて前面に垂れ下がり、隠すことの不可能な傷跡や繕ってはみるもののどうしても露呈してしまう現実を示唆しているようにも思えるのだ。
今回久し振りとなる日本での大きな展示に際して、手塚は現在の率直な思いを作品に込めていった。血液を想起させる赤い壁の上部には、不可視の液体を垂れ流す竹筒と塩ビ管が設置された。想定される液体は言わずもがなであるが、その直接的なメッセージの下には1900-30年代のドイツで使用されていた布製品に手を加えた作品が並べられた。染みや黄ばみなど当時の人々の営みそして気配が残る織物に手塚は刺繍を施し、または糸を解いていく。わたしたちが歴史的に抱え込んだ内なる痛みや日常に潜む危うさを、畸形の心臓やアイマスクをして食べる人の図像によって暗示し、ひと針ひと針刺すことで現代へと蘇らせる。過去は現在と切り離すことはできないはずだが、どこかで釦を掛け違え変調をきたしてしまったこの社会で一体何が起きているのか、それを考えるヒン トになり得ると信じて。それは痣の定義が各国の言葉でプリントされた2種の作品にもいえることである。片側は赤い壁面中央のドイツの古びたテーブルクロスに、もう一方では6種のゴブラン織の緯糸を解き、色鮮やかな赤い糸を抽出する《Suspended Organs (bruise)》の中央の薄い布に印刷されている。その形状は、実際に手塚の身体に現われ た痣が元になっているために、個人的な痛みと社会の痛みの交差する地点ともなる。薄い布は背後の数種の赤い色糸の存在を浮かび上がらせ、痣=内出血する肌のようにも見える。《デジタルとアナログ》と題された対作品は、ゴブラン織から縦糸を解き、解かれた緯糸のみでメッシュ地に肛門の形が刺繍される。タイトルからも刺繍されたイメー ジは明らかにされないが、精緻で無機的な織物から有機的な何かが溢れ出るような形状が生まれることにより、不可解な生々しさばかりが増幅されている。最後に、展示室のショーケースを使ったインスタレーションは、本展覧会ならではの試みとして《想像しなおす》と題された。福岡市美術館が所蔵する古美術作品を安価な大量生産品と併置することによって、現代社会が抱える問題のみならず、物に対する敬意と守り抜いてきた人々への敬意、物を生み出した人間の原初の動機、そして美術館という場が抱える制度など、さまざまな問題について再考を促す空間となった。 手塚が今回試みた広大な時間との対話は、手塚の作品を通して、わたしたちの今後へと送り返される。