Statement

点字のための手紙 (2015年「StardustLetters 星々の文」展、兵庫県立美術館)

先ほどフィリピンのマニラを発ち、アブダビというアラブの国にある町で一度飛行機を乗り換えて、ベルリンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。この手紙を読んでくださる方あるいは音読で聞いてくださる方は、点字が読める方、目が見えない方のどちらか、もしくはどちらもの方かと思います。この度、この場所で目の見えない方も鑑賞できる美術の作品を作ってくださいというお題をいただいて、点字で読むことができる手紙を書こうと思ったのですが、さてどこから書き出そうかと、ここ最近ずっと考えてしまっていました。ふだん美術の作品を作ったりそれを美術館で展示したりしている私にとって、盲目の方とふれあう機会をいただいたのはこれが初めてかも知れません。目が見えない観者、目が見える観者、そしてわたしがどのようにこの美術館で交差することが出来るのかなと考えて、この作品を考えました。先ほど通って来られた室内の糸の森は、上部に張られた大きな網の目から垂れ下がっていて、それぞれの糸はその上部の網と接する部分で点字を形成しています。目が見えない方にはその網に書かれた点字は見ていただくことはできませんが、点字の意味がわからない方にはただ星座のように見えるだけです。またこの手紙の内容は、わたしと、作品制作に携わったひとと、読み手である点字の読める方しか知りません。わたしがふだん、盲目の方が見ている世界を見られないのと同じように、目が見える人が美術館で見えないものがある、あるいは盲目の方にしか知らないことがあるという関係を作ることで、先ほどの「三者の交差点」が作れるかなと思ったからです。(目が見える方で手紙の内容が知りたい方がもし居たら、がんばれば美術館外で読めるような仕組みは作ろうかなと思います)

さて、私が住んでいるのはドイツにあるベルリンというところですが、仕事や展覧会のためにせわしなく色々なところを飛行機で移動しています。先々月は織物を織るために南オランダのティルブルグという田舎町に行き、先月はドイツのミュンヘンと、ノルウェイに行き、そのあとすぐにフィリピンのマニラに行き、これからベルリンに帰って、一週間ほどしたら再びノルウェイに行き、来月はこの兵庫の展覧会のために日本に行き、兵庫のあとは別の展覧会のために東京に行き、秋には韓国のソウルに行きます。私は今年の夏で39歳になるのですが、こんなような生活をしていて、結婚はどうするのかとか、子供は産まないのかとか、アーティストですから毎月のお給料があるわけではなくお金が入ってくるか入ってこないかはまちまちで、入ってこなければ家賃が払えないなあとか、そのような「どうしようかなあ」という要素が常に頭にあって、旅をしていてもそのようなことが夢に出てくることもあります。そんな中で、いろいろな民族、文化の異なる人たちと握手をして笑顔を交わし、お互いにとって外国語である英語を使うため完璧には聞き取れていないなかで、現場での展示作業を一緒にして、オープニングのパーティではふだんはまったく着ないワンピースとハイヒールを履いて、またスタジオに戻って急いで仕事をして、というような生活です。当然、その土地に行けばその土地の人たちの癖とか習慣とか特徴というようなものがあって、同じヨーロッパでもドイツ人とオランダ人とノルウェイ人では違うし、シンガポール人とフィリピン人の行動の特徴もまったく違います。私が彼らをドイツ人、オランダ人、フィリピン人と呼ぶように、私は彼らにとって日本人代表です。彼らは当然、私を通して日本と言う国を透かして見ようとします。その時に、私は私のなかで、日本をうんと褒めて自慢したい気持ちと、うんと批判して悪く言いたい気持ちとに引き裂かれます。けれどそれをどこまで言おうとしても、彼らに思うように伝わることはなく、言おうとするのは、あくまで自分がこんな状況にあることを確かめたくて言うだけなのだと思います。同じように、私がどんなに彼らを観察して分析したとしても、彼らの祖国への思いは知りようがないのだと思います。

話は変わりますが、今日は空港に向かう車のなかで、マニラのスラム街を通ってきました。いろいろなゴミが散乱した路上に、まだ薄汚れているように見える洗濯物がびっしりと吊り下がった窓、埃っぽい狭い路地のなかで、平日の昼間だというのにたくさんの子供たちが裸に近い格好で元気に遊んでいたので、空港まで送ってくれた美術館のスタッフに何故かと聞いたら、親の貧困が深刻で学校に行かせる、あるいは教科書を買ってあげるお金がないからということでした。そうゆう子供たちは、学校に行かず、ゆくゆくは再びスラム街で物売りになるなどしかないということでした。日本ではほぼ全員が義務教育を受けられることをその方に伝えると、僕たちの国もそうなったら良いのになあと心を込めて言っていました。今の日本の政府もたいがいだらしがなくドイツから見ていても恥ずかしくなるニュースばかり目につきますが、少し外に目を向けると、ふだん当たり前だと思っていることが尊く見えてきたりもするし、フィリピンの政府は何をしとるんだ!という気持ちにもなります。けれど人は自分が通って来た道のりをすぐに忘れて、自分が出来ることを目の前の他人が出来ないと許せない生き物だということをどこかで読みましたが、フィリピンもこれから彼らの独自の道を通って、あの子供たちが学校に行ける日がくると良いのに、と胸を少し痛めながら、空港に着きました。

また話は変わりますが、昨年はシンガポールで展覧会があったので、一ヶ月ほどシンガポールに滞在しました。シンガポールは先ほどまでいたマニラよりずっと暑く感じられ、ひどく蒸し暑かったことを覚えています。シンガポールはイギリスに、フィリピンはスペインに、それぞれ何百年も植民されていましたが、そこを第二次大戦下に日本軍が介入し、両国とも侵略してめちゃくちゃにしています。先日はマニラの国立美術館で日本兵が現地の捕虜の首を切り落とす油絵を見て、昨年のシンガポールでは日本が侵略したことで飢饉や貧困が引き起こされ如何に大変だったかを歴史博物館で写真とともに読みました。アジアの国を旅すると、私の祖国が少し前にしたことについて胸がつぶれそうな気持ちになるのはどうしても避けられないことです。しかし同時に、この蒸し暑い、本当に蒸し暑い、きっと蛇も毒虫も蚊もたくさんいたジャングルの中で、食事もろくに与えられず、洗濯も入浴も十分に出来ない中で、国からの命令というだけで祖国に帰れなかった日本兵の思いがその土地に沈殿しているように思えてならず、昼までも夜でも、ジャングルを通りかかると、ぼうっと見入ってしまいます。恋人に、母親に会いたかっただろうな、現地で恨まれるようなことをしたかったわけではないだろうなと、夜になると月を見上げて、70年前もこの月を見ていたのだろうかと度々思ったりもしていました。

ところで現地に滞在することで反日感情を持った人に会うかと言えばそんなことは今まであまり経験したことがありません。昨年行った香港で、あるバーで一人で飲んでいると中国本土から遊びに来たと言う坊主刈りの男の子二人が話しかけて来て、日本はすごい国なんでしょ、日本に行ってみたいなあ。でも…日本人は中国人が嫌いなんでしょう?とおそるおそる聞いてきました。私はそれを聞いてすぐに、双方ともに同じことを思っているんだなあ、操作しているのは誰なんだろう?と率直に疑問に思いました。新聞もニュー スも双方の政府の言うことも、そのまま信じてはいけないと直観で思いました。また、同じく香港で作品を運ぶための大きなバンの運転手の男の子と空港までの道のりでおしゃべりになって、その男の子が「僕の車もトヨタだよ、トヨタが大好きなんだ!トヨタの車は本当に世界一だと思うよ。日本はすごいなあ、たくさんの技術を持っていて。本当にすごいと思うよ!」と力を込めて一息で言い切りました。週何日くらい働いてるの?と聞くと、何日?うーん、もうすぐ赤ちゃんが産まれるので週7日働いてるよ、と言っていました。
香港はすごく面白く発展していて、どのように物を売るかをよく考えて工夫しているし、その知恵や工夫には思わずうなるようなものもありました。シンガポールもそうですが経済的にうまく行っているため、いわゆるイケイケの状態に見えました。しかし、日本はもうそのようなところに戻ることも戻る必要もないように思います。みんな既にテレビラジオも持っているし、パソコンもエアコンも持っている。このことから考えて、私のような素人からすると至極当たり前のことのように思うのですが、これ以上何かを売ったり買ったりすることで豊かになるということはないように思います。そのようなバブル期の亡霊への固執から早く離れて、なにか精神的にハッピーになる道をいち早く探して行かなければならないので、競争相手として彼らを見るのはどこか的外れな気がしています。私がドイツに好んで住んでいるのは、そのような意味で彼らがハッピーに生きる方法を知っているように思うからです。実を言うとベルリンはとても貧乏な町で産業もないし職も少ないし、壁が崩壊した象徴と国会と欧州SONYの本社くらいしかありません、というと大げさかもしれませんが、とにかくそんなに裕福な町ではありません。けれど、町の図書館に行けば閉館時間が迫っていて慌てて本を借りる手続きをしていても責付いたりしない、何故なら学ぶと言うことに対する尊敬があるからです。アートを志していると言えば、たいていの人はすごいね、えらいねと言いますがそれも芸術に対する深い尊敬があるからです。企業は美術館やギャラリーに協賛をすると社会での評価が大変高くなるので、多くの企業が芸術にお金や自社製品を提供しようとします。日曜日はトルコ系以外のお店は全て閉店で、と書いている間に飛行機はアブダビに着き、まわりはすっかりアラブの世界になりました。ここからベルリン行きの飛行機に乗り換えます。ベルリン行きの飛行機は当然ドイツ人が多く、女の子が人参やリンゴをかじっています。ヨーロッパのひとはおやつやお昼がわりに生の野菜や果物を皮のついたままそのままバリバリとかじります。添加物がたくさん入ったお菓子よりもずっと良いかもしれません。私は数年前から食べ物のことを考えているのですが、日本から出るまでは日本の食べ物がとても安全で添加物や農薬などの観点からヨーロッパよりも安全と思っていました。しかし今は真逆のことを思います。日本の食べ物には原発事故による放射能が実際に混ざっているかもしれないということもそうですが、それより以前にも食べ物に添加されている化学物質がひど過ぎる。それに、あまりお金がない学生や子供たちをターゲットにした食べ物の添加物への配慮が欠けているし、また子供たちの食べるということに対する意識もとても低い気がします。ここでもう一度私がドイツを好きな理由ですが、もちろんドイツにも限りなく安く怪しい食べ物はありますが、自分の意識が高ければ選んで食べることはできる。それも、日本のオーガニックフードのようにお金持ちだけが買えると言うような大きな価格の差はありません。ドイツ人は食べるということに対して、日本人よりもずっとずっと意識が高いように思います。

ここまで書いたあと、私は無事にベルリンに戻り、少ししてからまたノルウェイに旅立ち、ひとつ個展の設置を終わらせて、一昨日ベルリンに帰ってきました。ノルウェイは北欧なので夏でも夜はダウンジャケットを着るような寒さです。展覧会の準備の現場では、シェルというおじいさんが私の仕事を手伝ってくれました。シェルはその土地の建物を修理したりメンテナンスしたりする仕事をしているので何でも工具を持っていて、私が頼んだことは何でもやってくれました。しかしシェルはとても悲しい目をしていて、多分お一人で暮らしていて、シェルと目が合うと、シェルの過去にはどんなことがあったのかなあ、と思ったりしました。シェルは美術の畑の人ではないけれど、美術が大好きで、私の作業をずうっとじっと見ていました。作品がひとつずつ出来上がるたびに、素晴らしい、美しいと褒めてくれ、最後の挨拶をした時は、あなたと仕事ができてよかったと言ってくれました。ノルウェイ滞在中に、ノルウェイの歴史についても少し勉強しましたが、私たちが「北欧」と一括りにしてしまってその内情をあまりよく知らないのは、北欧の歴史を学ぶことは日本の教育では省略されてしまっているからだそうです。一言で北欧といっても、その隣国同士には一筋縄ではいかない歴史や思い、そのことによる緊張関係があります。このことは、ヨーロッパの人たちが「アジア」と一括りに呼び、日韓や日中の関係については知るはずもないことと、よく似ているなあ、と思いました。

さて、次の旅は私の祖国、日本に向かいます。この手紙を点字に訳して展示するために、兵庫に行きます。私は日本を離れてから丸5年以上経っているので、日本に帰る時は多少ドキドキします。というのも、日本人は色々な言葉を短くして勝手に言葉を作るのが大得意なので(例えば朝イチ、ファミレス、パソコン、などです)、実際この5年でも新しい言葉が生まれていて、時々意味のわからない言葉に遭遇します。また、日本の人は他人に対して大変丁寧なので、ヨーロッパで生きるために粗雑になってしまった私の言動が失礼じゃないか、怖く思う時もあります。それとヨーロッパの人は、思っていることや要求ははっきり言わないと伝わらないところがありますが、日本では相手の意図を汲み取る文化なので、私が気づかずに汲みとれていないものがありはしないか、少し心配になるところもあります。そして2011年以降、多くが、全てが変わってしまったように思える日本ですが、そのような歴史の転換点に、こうして外国と日本を行き来しなければならない立場を与えられたことについて、私がすべきことはなんだろうと考えています。それぞれの国がそれぞれの歴史と現在の困難を抱えていること、それに対する人々の祖国への想いは世界中どの場所でも共通することです。美術作品を作ることが私の仕事ですが、仕事を通して、私の見たもの、考えたことが少しでも現在のしるしとして残るならば、意味のあることだと思っています。

取り留めもなく長く書きました。母や恋人にあてる手紙のように、なんのテーマも、構成もないままに書こうと思いました。兵庫県立美術館でのこの展示や作品が成功するかどうかはわからないけれど、わからないままとりあえずやってみるということは、いい加減なようで、実は何度も私を救ってきたので、このまま、結論もないのですが、手紙はここで終わりにします。

 

手塚愛子より2015年6月30日 ベルリンにて