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布と袋(テキスト:近藤由紀)

近藤由紀(国際芸術センター青森 学芸員)2008年、青森

手塚愛子は絵画から出発し、「絵画」について意識的に制作を行っているが、その作品は糸と布(刺繍・織物)を使った作品としても知られている。手塚が作品の素材としてこれらを選択するようになった理由の一つは、作品において「両義的な状態」を表すことを試みたからだという(註1)。二つあるいは複数の意味や状態や、それらの間に在るもの、あるいは間そのものを運動とともに喚起しうるような表現を求めた手塚の作品では、布は解体されて糸となり、その糸は再び別の構造を持ち始める。この解体と構造化の二つの状態を同時に持つことが手塚の作品全般に共通する特徴であり、それは様々な方向から繰り返し示されている。

例えば、《糸 会》(2007年)(fig.1)では、ゴブラン織りの緯糸が引き抜かれ、解体されている。糸を引き抜くことで、あたかも織りの最終的な一層だけを剥がし、その下にある層構造を喚起させるようなこの作品では、それぞれの色の糸が織り重ねられて一枚の図像となっていく時間を遡及的に表しているかのようである。一方《層の絵―縫合》(2008年)(fig.2)では逆に、素材としての糸を中央に晒したまま両端に異なる図像の織物(しかも複数の文様や図像が重なり合っている)を作ることで、糸から織物が形成されていく順行する時間が示しながら、表面の図像がもつイリュージョンを解体する。この糸と織りの状態と時間は、同じ赤い糸によって刺繍された反転する文様面と、やはりその裏側を生々しく剥き出しに晒した糸をメビウスの環のような構造でみせる《薄い振幅》(2004年)(fig.3)において、循環する無限の運動の中で表されている。《空白と充満を同時にぶら下げる》(2004年)(fig.4)は、手塚が布や糸を使った作品と平行して制作している「絵画」作品であり、レースや織物に用いられる伝統的文様が描かれた油彩画である。ここでは糸と布は使われていないが、キャンバスという「布」の上に本来なら織られて作られる図像を描くことで「布の上の図」としての絵画と織物を並置させ、その境界を曖昧にすることで、絵画の物質性をも想起させる。これらの作品では平面上で結ばれた像の裏側を同時に顕したり、途中の状態を晒したり、像の属性を曖昧にしたりすることで、その状態を宙吊りにし、ある平面の上で完成された像としての「絵画的」イメージを崩そうとしている。布や糸はこうして選ばれた素材であり、したがって、手塚の作品は糸と布を用いているとしても、絵画に対して意識的な作品であるということができる。

とはいえ、手塚の作品はそのような形式や構造にのみに特化した作品ではない。作品を制作する際、その素材や形式を所与のものとして無邪気に受け入れるのではなく、その自明性を疑い歴史を再考しながらも、それを否定するのではなく、前世代の試みを批判的に継承しつつ、別の肯定を与えようとする。この際その拠り所を「古来~」あるいは「人間がもともと~」といった発生の状態まで遡って検証しようとする姿勢は、同時代的な傾向であるともいえるだろう。それは例えば絵画によって絵画を語るメタ絵画的な試みが出し尽くされた感のある世代としての選択なのかもしれないし、世界を虚構の表層的反復とみなすポストモダニズム的な態度に対する揺り戻しなのかもしれない。いずれにしてもそこには芸術の歴史についての意識と自覚があると同時に、「絵画」について、そして「芸術表現」それ自体についてのエッセンシャルな問いかけがある。この二つの問いかけは手塚の作品における二つの軸として作用していると思われる。前者はいわば「絵画」という一つの表現様式について言及するものであり、構造へと向かうそのあり方はモダニズムを歴史的に経験した世代であることが意識されている。一方後者は原初的な人間の創作衝動が「作品」として成立する「芸術の発生」を探ることで、表現それ自体を追求する。今回国際芸術センター青森で制作された袋の作品は、手塚が近年発表している織物を解体する作品に比べ、後者の軸へと触れた作品であるように思われた。

今回制作された作品《袋》は、いくつかの作品といくつかの民具から構成された。メインとなる作品は展示空間の中央に下げられた七本の「袋」である。白い三本の筒型の袋はそれぞれの表面に刺繍が施されているのだが、それぞれの刺繍糸はだらりと長く垂れ下がり、袋の底から零れ落ちるように床に垂れている。手前の袋には黄色、緑、ピンクなどの細い糸によって幾つかの単語が日本語と英語で刺繍されており(fig.5)、これらは「近代」という時代のパラダイムによって生まれてきた単語として選択されている(註2)。これらの単語は細い糸によってひらがなで刺繍されているために、場合によってはそれらが単語であることに気がつかないかもしれない。奥にある袋は判別をより困難にする白い糸で刺繍されており、文字の意味内容の強さとその現れは対照的である。同じように袋の底が裂けて、糸を零している袋はもう一つあり、こちらは文字ではなくピンク色の糸で手の形が刺繍されている。これらの手は何かを掬うような、あるいは何かを受け止めるような形をした両手であり、その刺繍された手から垂れ下がる糸は、あたかも手の平からなにものかが流れ落ちているかのようである。これら三本の袋の間に黒く柔らかい布で作られた袋と金色のメッシュの布を使った袋が天井から下げられている。黒い袋は底が完全に開き、床の上で優雅な円形のドレープを作っている。糸が零れ落ちた袋との対比により、底が完全に崩壊し中身が勢いよく落下している袋のようにもみえる。これに対し金色の袋は唯一完全な袋の形を保っているが、目が粗く、光に照らされ金色に光る袋は、淡い空気感を纏い、質量を感じさせない。こうして全体をみると、それらは袋が破れ、中身が抜け落ちていく状態が段階的に示されているようにも感じられる。いずれにしても何物かを包んで保っておくには儚すぎる袋の在り様は、象徴的ですらある。

ところで手塚は、今回の作品を制作するにあたり、自作との関係において青森でかつて使われていた織物や刺繍といった民具を調査することから始めた。この過程で北海道東北民具研究会会長田中忠三郎氏および、旧青森市歴史民俗展示館稽古館(註3)のコレクションであり現在青森市教育委員会所蔵の様々な布や袋と出会った。そして最終的に田中氏から古い麻袋(fig.6)を、市教育委員会からは南部菱刺し(fig.7)を借用し、手塚の作品とともに展示した。これらの布製の民具はいずれも貴重な生活用具であったのだろう。補修、補強のために、あるいは防寒のために、麻布や木綿布を何重にも重ねて縫い付けていたり、何層にも重ねて刺繍がなされたりしていた。一方でこうした作業は単なる機能主義的に行われていただけではなく、呪術的な意味での文様や色彩の選択や、「遊び」やデザインといった遊戯的要素をもっていた。例えばある民具は、布や糸を何世代分も重ねて縫い付けることが、歴史や血縁といった縦軸の時間の人と人との繋がりを物として現し、手にすることとして捉えられていた。つまりそれらは実用的な道具であると同時に、ある種の信仰の対象(宗教という意味ではなく)でもあった。そうした祈りにも似た思いが込められた民具たちは、芸術作品とそうでない物とが未分化な状態、あるいは「芸術作品」の原初的・発生的な「形」について考えさせられる「物」でもあった。

こうした民具との関係が具体的な形となって二つの作品が制作された。ギャラリー奥に展示された袋の作品(fig. 8)は、この民具の麻袋を模して作られた。「現代版麻袋」ともいうべきこの袋は、海外の有名ブランドのバッグの布を模し巧妙に変化させたロゴ、似非ジャポニズム風の筆文字の平仮名、迷彩柄、アニメーションのキャラクター、似非ヨーロッパ風の小花などがプリントされた、いずれもオリジナルの何かを表層的に模したイメージが印刷された新品の布の継ぎはぎによって作られている。それぞれが模したオリジナルの柄にはさまざまな歴史や意味があったのだが、これらの布はそうした層をすべて捨て去り、表層的な面だけを取り上げ消費している。

もう一点の作品は、刺し子のお手本の布の上に、ピンクの糸で袋から何かが零れ落ちている手提げ袋が刺繍された作品である(fig. 9)。この布は指示通りに刺繍をしていけば、だれでも刺し子を作ることができるというものであるが、民具としての南部菱刺しと並置されることで、我々の世代が受け継いだものと受け継がなかったものを暗示させる。

手塚はこれらの作品によって、現代工芸や手芸愛好、現代社会の趣味・趣向や消費社会の在り方を批判しているのではないと明言する(註4)。ただ、我々はもはやそれらの袋や布が作られ使われていた時代に、その精神構造に戻ることはできないだけである。信仰の形にも似た民具と並置させることで、我々の時代が時代としての枠組みを作る過程で選択してきたものと、そこから零れて落ちてしまったものがあるということを静かに提示しようとしているのである。そしてこれは何かをひとまとめにしようとした袋が次々と破れ、中のものがはらはらと零れ落ちている袋の作品のコンセプトへとつながっていく。こうして《袋》は、具体的な何かの境界を指し示すようなものとしてではなく、物事を理解し、識別する上での枠組みあるいは形式としての観念的な袋として中空に浮かび上がっていく。

ところで手塚がこうした袋の作品を制作したのは今回が初めてではない。ある形式が生まれること、そしてその境界面が崩れていくこと、あるいはそれらが同時に存在する状態として袋は繰り返し手塚の作品のモチーフとして登場している。今回その袋が民具とともに展示されることにより、芸術の領域や形式についての問いかけは、人間が作り出した何物かが「芸術作品」となる場面のような、その発生に遡る精神的な領域についての問いかけとより結びついたといえるのではないだろうか。今回選択された民具はまさに実用のものである。それらの用途、信仰は、現実の生活と深く結びついており、虚構や芸術のための知的ゲームとはかけ離れた存在である。一方で手塚は博士論文の中で絵画が持つ時間的・歴史的な層構造について「モンドリアンの格子の隙間から牛の角が引き出され、劉生の麗子像の下には琳派やルネサンス絵画がその姿を覗かせる」(註5)と表現している。ここではモンドリアンが根源的な原理を探求し、世界を還元的に表そうとした試みは、世界と自己に対する認識の探求という点において、原初的な創作衝動と重ねられている。そこには手塚の「絵画」という一見閉じたようにみえるメディアについての探求と芸術の発生における人類の根源的な探求が、現代の芸術のあり方として、人間の生へと向かおうとしている点で重ねられていることがみてとれるだろう。同時にこうした原初的なるものへと向かうものが、単純なプリミティビズムからくるのではなく、引き受けなければならない歴史を背負った上での志向であることがみてとれる。したがって、手塚は青森で出会った民具を有難く珍しいものとして受け取ったのではなく、それらの物に宿る隠された層としての同時代性を見出したからこそ、共に展示したといえるだろう。

物事が零れ落ちる袋は、何ものも掴むことのできない虚構の袋ではなく、緩やかな制度、形式であり、それが絶対でないにしても、何物かを掴むための袋である。掴むと同時に零れ落ちる両義性は、その曖昧さを表明し、世界のあらゆるものを虚構として捉えるものではなく、世界を肯定的に受容しながら新しい時代に生まれ行く、生成するダイナミズムの形を示しているかのようである。

 

(註1)手塚愛子「織りとしての絵画」(博士論文、京都市立芸術大学)、2005年。

(註2)制作中の作家本人の説明による(2008年5月)。

(註3)青森の民具、民芸およびアイヌの文様、工芸に関する充実したコレクションを多数所蔵し、展示する博物館であったが、2006年を持って閉館された。この館の館長であった田中忠三郎氏はこれら民具の研究者であり、個人コレクターでもある。今回の展覧会にあたり、田中氏および旧稽古館学芸員の三上洋子氏に作品の貸出協力のみならず、多くのご助言、資料提供等を賜った。ここに謹んで御礼申し上げたい。

(註4)展覧会初日のアーティスト・トークでの発言(2008年6月14日)。

(註5)前掲書(註1)、42頁。