Reference

織り交ぜられた芸術と歴史:手塚愛子による『レンブラント×更紗』プロジェクトに寄せて

チンリン・ワン(キュレーター、アムステルダム国立美術館)
2019年9月

1. レンブラントの《夜警》:「失敗作」と誤解

オランダ絵画の巨匠レンブラント・ファン・レイン(1606〜1669年)といえば、誰もがまず思い浮かべるのは、アムステルダム国立美術館所蔵の大作《夜警》であろう。美術館にとって掛け替えのない最重要作品であるばかりでなく、レンブラントの最高傑作とも考えられている。

今でこそ最高の声誉を博するこのレンブラントの作品であるが、発表当初の評判はあまり良いものとは言えなかった。1639年初冬、フランス・バニング・コック隊長とその市民自警団の隊員18名は、自分たちの集団肖像画の制作をレンブラントに依頼した。火縄銃手組合集会場の大広間の壁を飾るためだ。しかし、1642年、遂にこの絵画が公開されたとき、意外なことに、依頼主から過度の熱狂を持って受け入れられることはなかった。期待されていたのは、芸術家の独創的な解釈に基づく芸術作品ではなく、自身の尊厳の精確な記録であった。つまり、隊員それぞれの肖像が、ただ立派に描かれてさえいれば良かった。それにもかかわらず、この絵画には尊厳も再現性もほとんど見当たらないと一般的に認知されてしまった。描かれた人物のほとんどは、身体の半分が隠れていたり、背景に溶け込んでいたり、あるいは陰で顔が見えなかったためである。さらに分が悪いことに、レンブラントは当初の注文通り18人の肖像画を描く代わりに、構図の美しさを優先させ場面をより盛り上げるために脇役をでっち上げ、実に31人もの人物を画中に描き込んでいた。顧客である隊員たちは、これを実証する記録はないものの、《夜警》の仕上がりに不満を持っていたと考えられている。一部の砲兵、例えば陰に隠れていたり、あるいは部分的にしか描かれていない砲兵は特に不愉快だったと想像できよう。《夜警》の完成後、何年にも渡りレンブラントが肖像画の注文を受けなかったことは驚くべきことではない。

レンブラントの依頼主は不満を残していたようだが、本作は、今日では西洋美術史における傑作の中でも最上の作品と考えられている。レンブラントは本作を、物語の深みが潜在する演劇的な歴史画のように描き上げた。作品の完成度の高さは、ドラマチックな場面へと観る者を惹きつける。隊長が腕を上げ指令を飛ばし、太鼓が殴打され、火縄銃が装填され、そして引き金が引かれる。こうして一つの複雑な場面が築き上げられ、光と陰の効果によって空間に深みが与えられ、古典的な背景、すなわち歴史画に対抗するようなバロック風の動きが画中に持ち込まれた。レンブラントは、集団肖像画の人物に動作を与えた最初の画家であった。市警団の隊員たちは太鼓に合わせて行進を始め、今にも出動しそうな姿勢を見せている。この画家は、光の扱い方に関しても、類を見ないものがあった。絵画のタイトル《夜警》は画家自身が付けたものではなく、むしろ全くの誤解から生まれたものである。〔このタイトルがつけられた〕19世紀までに、キャンバスはあまりに黒ずみ、薄汚れてしまったため、夜間パトロールをする市警団、つまり「夜警」の様子を表現した絵画であると考えられてしまった。ところが、キャンバスの黒ずみが除去されると、市警団が立っているのは、日中の光が射し込む暗い室内であることが明らかになったのだ。

2. レンブラントのインドと日本

レンブラントをインドや日本と関連づけることはどちらかといえば珍しいことだが、しかし、実のところ、この画家の「驚異の部屋」〔分野を問わず世界各地の珍品が集められ陳列された部屋〕の中には、インド、中国、そして日本を含む東洋の蒐集品が並んでいた。とりわけこの画家は、ムガル朝時代の細密画に夢中になっていたようだ。レンブラントの所有品目録の1656年7月25日の項目に「珍妙な細密画が多数掲載の画集」という記述が見られる。これはムガル朝の細密画を言及したものと考えられている。レンブラントが他の芸術家の作品を模写することはほとんどなかったが、彼が所有していたムガル朝時代の細密画に関しては、25枚からなる一連の忠実な模写が行なわれたことが確認されている。

アムステルダム国立美術館のコレクションには、1656年から1658年にかけてレンブラントがムガル朝の細密画から模写した3枚のスケッチがあるが、例えば《ムガル皇帝 ジャハーンギール》(注1)のように3枚とも和紙に描かれていることは特筆すべきことだ。17世紀のオランダ人画家にとって、和紙は馴染みないものではなく、例えばヘラクレス・セーヘルス(1589〜1638年)など、レンブラント以外の芸術家でも、和紙を使って版画制作に取り組んでいたことがわかっている。

3. インド更紗のオランダと日本

更紗とは、木版あるいは手描きで施された花模様などの文様で知られるインド産の木綿の布地のことである。オランダ東インド会社(VOC)の交易によって、大量の更紗がインドからヨーロッパにもたらされ、更には、ペルシャ〔現イラン〕、シャム〔現タイ〕、インドネシア、中国、そして日本へと広域に渡り流通していった。更紗は、ヨーロッパでは、衣服の生産だけなく、室内装飾においても重要な役割を果たした。輸入された更紗の異国風な文様は、ヨーロッパで瞬く間に採用され(そして改変され)、次第にヨーロッパからの注文が、インドでの生産にまで影響を及ぼすようになった。更紗がヨーロッパ全体で人気を博すのは時間の問題だった。富裕層の間では、更紗を用いた室内装飾が評判となり、各地の城や宮殿でも用いられるほどになった。

更紗を作る工程は複雑だった。まず、木綿に〔染色の色が定着しにくい素材であるため〕様々な油脂を用いた一連の処理が繰り返し施される。木綿が染色できる状態になったら、染料毎に異なる工程が踏まれる。濃い色彩や〔染料を発色・定着させるために化学反応を起こさせる薬剤である〕媒染剤は、文様が彫刻された木版で布に直接押捺されたり、あるいは筆にて手描きで施された。デザインによっては文様の特定の部分の染色を防ぐために蝋が用いられることもあった。

日本の鎖国政策によって1641年以降はオランダと中国のみが長崎での交易を許可され、この状態は1854年まで続いた。オランダ東インド会社を通してインド更紗は日本にも紹介され、異国風情溢れる織物として珍重された。茶人からは茶道具を包むための「名物裂」として重宝された。掛軸の表装に用いられたり、着物に仕立てられることすらあった。こうしてインド更紗は江戸時代の日本の染織生産にも影響を与えた。日本風の更紗が作られただけでなく、友禅染など、名高い郷土の伝統的な染織産業をも刺激した。他方で、更紗はヨーロッパでの染織生産にも影響を与え、銅版の捺染機で刷られた布地は19世紀の代表的な工業製品の一つとなった。興味深いことに、鎖国以降の日本は近代化を歓迎し、急な方向転換と大量生産の流れは、人々の暮らしを大きく変容させ、その影響は、今日までなお残り続けている。

4. 手塚愛子の「レンブラント×更紗」

手塚愛子のアートプロジェクト「レンブラント×更紗」は、オランダの巨匠レンブラントへのオマージュとして展開される。2019年はレンブラント没後350周年であるが、手塚は、オランダと日本の交易による結びつきに糸口を見つけつつ、歴史ある更紗とオランダ黄金時代を象徴するレンブラントの《夜警》を流用した特別なタペストリーをデザインした。

現在進行中のこのプロジェクトからはこれまでに2つの作品が生まれた。一つ目は、手塚によってデザインされたタペストリー《華の闇》である【図1】。《夜警》の画面上を覆っていた暗い空間が、アムステルダム国立美術館の所蔵品を中心に選ばれた色鮮やかなインド更紗によって埋め尽くされている(注2)。このタペストリーを、レンブラントの傑作と歴史的な更紗のコラージュとみなすこともできよう。両者は溶け合って一つの芸術作品を織りなしている。

絵画と織物は、美術と工芸に区別して捉えられる向きがあるため、両者に対する価値認識には隔たりがあろう。《夜警》の当初の注文時には、依頼主である市警団の18人それぞれが100ギルダーを支払ったとされている。ところが当時は、タペストリーのような織物の方がよほど高級品であった。手塚の作品は、美術と工芸の区別という問題に果敢に挑んでいると言えよう。「17世紀には、日々の暮らしの中で絵画と織物は共存しており、互いに影響を及ぼし合う関係だったのではないだろうか。」こう手塚は推察する。事実、17世紀には、重要な芸術家は折に触れてタペストリーのデザインも手がけていたのであり、ペーテル・パウル・ルーベンス(1577〜1640年)はその最たる例である。

手塚の本タペストリー作品において、晴れやかな色のインド更紗は、あたかもオランダ東インド会社の海外での繁栄を象徴するかのように、絵画上の光となった。オランダ黄金時代には、錯覚を起こさせるだまし絵のようなカーテンが、絵画の新たなモチーフとして扱われるようになったが、1646年という年号と署名が並んで書き込まれたカッセルにあるレンブラントの《カーテンのある聖家族》は、このモチーフを擁するオランダ絵画の最初のものと考えられている(注3)。手塚のタペストリー作品において、画面の暗い部分を埋め尽くしている更紗は、一見すると、あたかもレンブラントによって設えられた舞台幕のように見える。しかし手塚のタペストリーの更紗は、本物の更紗ではない。レンブラントのカーテンが本物のカーテンではなく画中に描かれたものであるように、手塚の更紗は、タペストリーとして織り込まれたものである。こうして手塚は作品の中で美術の歴史的なモチーフと戯れるのだ。

もう一つの作品は、織り込まれたタペストリーの経糸を作家が自ら解き、更に織り直したものだ。タペストリーを織る過程、そして織り直す過程は、歴史の構築、そして再構築の過程をみなすことができるだろう。それならば、タペストリーの経糸を解いていく過程は、歴史の脱構築と言えよう。

手塚の「レンブラント×更紗」プロジェクトは、作家特有の芸術的弁証法の賜物だと私は考える。レンブラントの絵画とオランダ黄金時代における東インド会社の海外交易、オランダと日本の通商関係、そしてインド更紗という異なる要素が、統合され、見事芸術作品へと昇華されているのである。手塚はこう語る。「よく思い出せない私の祖先たちの前近代的な記憶とその断絶、西洋との混血状態を受け入れざるを得ない場所から、今まで見たこともないものを作りたいと思う。そしてその「新しいもの」は、純粋にオリジナルである必要もないかもしれない、とも。」歴史を経糸に、芸術を緯糸に見なすなら、手塚の作品には、作家自らの手によって、芸術と歴史が織り交ぜられていると言えよう。

 

【図1】手塚愛子《華の闇(夜警 01)》2019年、作家のデザインによるジャガード織(多色の縦糸、アクリル、綿、羊毛)、130 x 175 cm(織物サイズ)、制作協力:テキスタイル博物館・テキスタイルラボ(ティルブルグ、オランダ)、ユディット・ペスケンス(同館、織物専門技師)、チンリン・ワン(アムステルダム国立美術館、中国美術担当学芸員)

(注1)レンブラント・ファン・レイン《ムガル皇帝 ジャハーンギール》1656年、和紙にインク、18.3 x 12 cm、アムステルダム国立美術館蔵
https://www.rijksmuseum.nl/en/collection/RP-T-1961-82(アクセス日:2019年7月11日)

(注2)正路佐知子「『自分自身が針と糸になる』— 手塚愛子の手法と思考」を参照されたい。

(注3)レンブラント・ファン・レイン《カーテンのある聖家族》1646年、木板に油彩、46.5 x 69 cm、ヴィルヘルムスヘーエ城絵画館蔵(カッセル)
https://altemeister.museum-kassel.de/33765/ (アクセス日:2019年7月11日)

*〔  〕内は全て訳者注

英文和訳:三上真理子

「自分自身が針と糸になる」——手塚愛子の手法と思考

正路佐知子(キュレーター、福岡市美術館)
2019年

過去と現在を織りなおす
手塚愛子は学生時代、絵画の探求のなかから織物に着目し、その解体と再構築という独自の手法を編みだした。それは当初、経糸と緯糸を組み織ることで多様な模様を描く織物を、絵具層で構成される絵画に見立てるという目的から生まれたかもしれない。しかしながら糸をほどいてゆくことで、描き、織られた時間をたどりなおすことは、物理的な構造だけでなく、それを形作ってきた制度や歴史に目を向けることでもあった。織物から糸をほどき、再構成し、刺繍する行為は、過去の出来事と現在を、あるいはそこに流れる時間を織りなおし、編みなおし、観る者に視覚的触覚的に伝える試みとも言い換えられる。
たとえば2014年に発表された《Certainty / Entropy(確実性とエントロピー)》のシリーズでは、手塚がデザインし、オランダ・ティルブルフのテキスタイル博物館テキスタイルラボの技術者によって織られた織物が用いられている。地には20世紀プラナカン(シンガポール)、18世紀インド、16世紀イギリス、8世紀日本において作られた伝統的な織物や装飾文様が引用され、その層のなかに現代人にとって馴染み深いシンボルマークが忍びこむ。今では「装飾」と分類される伝統的な織物文様と、現代社会における記号は、どちらも人間の欲望、願望、注意喚起、権力等を広く示すためのものでもあった。混沌を描く織物が手塚の手によってほどかれ、文様もシンボルも溶解し、シンプルな糸へと還元されている。
2018年に発表された《Do you remember me – I was about to forget》では、明治時代にハワイに移住し砂糖農園に入植した日本人の姿が、やわらかく光を通すオーガンジーに機械刺繍された。欧米人によってハワイは大規模にプランテーション化され、日本人を含む多くのアジア人が新天地を求めハワイに赴いていた。彼らは財を成したら帰国するつもりだったが、現実は安い労働力として厳しい条件下での労働を強いられ、彼の地を離れることは能わなかった。ガラス窓での展示を意図した本作は、薄い布や刺繍の奥に広がる現在の此処の風景と、ハワイ、そして日本人移民の姿が重なりながら、記憶と忘却の間を揺れ動く。
本展で初公開となる手塚愛子の新作のうちの1点、《華の闇(夜警)》では、17世紀オランダの画家レンブラント・ファン・レインの《夜警》が引用される。夜警という通称は、実の主題には「;警邏もなければ、夜もない」にもかかわらず、巧みな光と闇の描写に魅入られた人の感動を伝えるが、本作は、《夜警》の画像からフォトショップ(画像編集ソフト)が機械的に黒=闇と識別した箇所が、インド発祥の捺染布「更紗」に描かれた異国情緒あふれる茜色の花模様に置き換わっている。花々を追いかければ、オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie: VOC)のマークも読み取れよう。《夜警》が描かれた時代、VOCが独占したアジア貿易において、インド南東部コロマンデルで製造された更紗は各地で特に好まれた。VOCはコロマンデルの地方領主や染織技術集団と契約を結び、多くの更紗を作らせたという。その更紗は大航海時代に交易アイテムとして海を渡り、インドネシア、フランス、イギリス、オランダ、そして日本でも愛された。美術史上に燦然と輝く巨匠の名画と、美術の文脈からは排除されたが多くの人を魅了し当時世界経済に不可欠であった染織。同時代に生まれた絵画と染織が同一面に共存する本作もまた、手塚がデザインをし、テキスタイル博物館のラボで織られた。

 

モダニズムと日本
現代美術の領域において既製の織物を自覚的に用いてきた手塚は、美術と工芸(工業/産業)または装飾という領域の関係についても考察を続けてきた。織物と絵画は、どちらも人間が作り出した表現、形態であり、制作にかける途方もない時間や労力を要し、そこに描出される絵柄は観る者を魅了し、啓蒙し、あるいは所有者の権力を披瀝するために用いられてきたという点で共通点がある(「織物」が衣服等生活に用いられる場合も同様の指摘は可能だろう)。そして日本において美術と工芸が分化してゆくのは、「美術」という概念が輸入された明治時代のことだった。
ところで明治に入る前年の1867(慶応3)年、パリで行われた万国博覧会に日本から江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出品をしていた。この時注目を集めたのが、薩摩藩が満を持して出品した薩摩ボタンであったという(ref.1)。直径わずか数センチの高価な白薩摩地に、日本情緒あふれる風景や着物姿の女性が美しく絵付けされたこの華やかな陶製ボタンは、輸出先のジャポニズムブームに目をつけ、西欧の期待する伝統的な日本イメージが意識的に盛り込まれている。当時、ボタンは日本の着物には不要な装飾品であった。海外に向けセルフ・オリエンタリズムを演じるありようは、西欧との出会い間もない近代日本の状況をよく表わしている。
新作《必要性と振る舞い(薩摩ボタンへの考察)》で手塚がデザインした織物は、2009年の作品《落ちる絵》や2013年の《Ghost I Met》でも引用されていた飛鳥時代の刺繍による帳、天寿国繍帳が下敷きにされ、その上に水月観音菩薩半跏像の襞、その襞の間から薩摩ボタンが覗く。7世紀の刺繍織物、13世紀の彫像、19世紀の西欧への輸出用装飾品という複数の時代の造形物をレイヤー構造に編集してゆく繊細な作業ののち、デザインデータは織り機用に変換される。手塚は、技術者とともに画像ピクセルと糸一本一本を比較しながら、思い描いた画を織物に表わすべく画像を調整し、この織物を織り上げた。
本作において薩摩ボタンの対称を成すのは、ヨーロッパの造形によるレイヤーである。イタリアの大理石彫像の衣服の襞からは、薩摩ボタン制作時に参照されたであろう、本家本元の、18〜19世紀のヨーロッパボタンが覗く。

 

出会いなおしと織りなおし
本展の新作の制作は、株式会社ワコール(日本での個展会場となるスパイラルの親会社にあたる)の出捐により設立された研究機関の公益財団法人京都服飾文化研究財団(KCI)の協力を得ている。KCIから提供されたコレクション目録のなかから、手塚は収蔵されて間もない一枚の織物に注目した。それは京都の老舗織物会社である川島織物(現・株式会社川島織物セルコン)によって、1905-1925年頃に織られたとされるテーブルクロスである。手塚がこの織物に惹かれたのには大きく2つの理由があるだろう。まず、本品が明治期に織られたものであること。そして、川島織物セルコンは手塚が2008年の作品《層の機》《層の絵−縫合》(東京都現代美術館所蔵)、2013年の作品《Ghost I met》の制作に際し、協力を仰いだ会社であることだ。
江戸末期の1843(天保14)年、初代川島甚兵衛によって呉服悉皆業として開業した川島織物は、二代目川島甚兵衛によって大きくその活動を展開させた。二代目甚兵衛は1886(明治19)年の欧州視察のなかでゴブラン織の調査を行い、綴織の技術向上に生かした。翌年には「皇居御造営御用織物の調整」の特命を受け、1888(明治21)年には明治宮殿の室内装飾を供している。それは日本国内で初の室内装飾業であったという。
KCI所蔵のテーブルクロスの制作年および発表年についての詳細は明らかではないが、同種のテーブルクロスの万国博覧会への出品歴から、1900年代初頭の作ではないかと考えられている。テーブルクロス自体、欧化政策のなかでテーブルマナーとともに日本にもたらされたものだが、二代目甚兵衛は1900年のパリ万国博覧会よりテーブルクロスを含む室内装飾専用の織物一式の製作・発表を開始している。川島は「呉服だけでは伝わりにくい大きくても精緻である技術力」を世界に顕示するために万国博覧会等のイベント出品用として室内装飾織物を重視していたことが先行研究において指摘されている。
100年以上前に京都の老舗・川島織物によって織られたテーブルクロスが、京都の服飾研究機関のKCIに所蔵され、同じく京都に本拠を置くワコールによって設立されたスパイラルでの個展で発表する作品を準備していたという機運。手塚は川島織物セルコンに、このテーブルクロスの再製作を持ちかけた。それは時を隔てた手織りと機械織りという技術の再会とも言えるだろう。ほぼ原寸大で再現された本展出品作《京都で織りなおし》は、手塚が引き寄せた奇跡のような出会いと、明治期の日本の「美術工芸」のありよう、すなわち美術と工芸の技術革新と対西欧への両義的態度を振り返る、コンセプチュアルな作品である。

 

表と裏、その揺れ動き
1869(明治2)年200年余りにわたる鎖国ののち開国した日本。世界の中心たる西欧諸国と対等にある日本をアピールするため、明治政府は西欧の価値観に自らを適合させてゆく欧化政策をとる。劣等扱いをされぬよう、植民地化されぬよう、統治体制はもちろん外観や習慣に至るまであらゆる欧化が急務とされた。たとえば、それまで天皇が単独で応じていた儀式や外国要人との会見にも、西洋式に1872(明治5)年から美子皇后が同席するようになる(ref.2)。加えて服装も、「権力としての列強に日本の『文明』を説明し説得するという国際政治の延長線上」にあった。
1873(明治6)年、「各国帝王の服制を斟酌して」天皇は断髪をし、西洋式の軍服を正装とした。宮中の女性の服装は十二単の略装といった公家の伝統的な装束だったが、男性の服制更改に10数年遅れて、1886(明治19)年6月23日、宮内大臣であった伊藤博文から婦人服制についての通達が皇族や大臣他に向け出される。皇后は同年7月28日に洋服を着用、同月30日には初めて公の場で洋装を披露する。1887(明治20)年1月17日には皇后から女性の洋装を奨励する「思召書」が内閣各大臣、勅任官、華族に下された。女性の洋装化に頑なに反対した天皇と比べ、「国ノ為メナレハ何ニテモ可到」と述べたという皇后の態度は、わたしたちの目には時の変化を見据えた先進的且つやわらかい「新しいタイプの近代的皇后像」として映る。1883(明治16)年にはすでに欧化政策の一環として、外国からの国賓や外交官との社交場である鹿鳴館が落成しており、のちに鹿鳴館スタイルと呼ばれるような洋装は一部で取り入れられていたが、洋服をまとった皇后の姿は、日本の社会に大きな影響力があったことは疑いない。最も知られている美子皇后の洋服は、おそらく明治末期の新年朝賀に着用したとされる大礼服/マントー・ド・クール(共立女子大学博物館所蔵)(ref.3)だろう。深い緑のビロード地に大中小の菊が見事に刺繍された生地には、すべて国産の素材と技術が用いられているという。それは洋装化にあたり皇后が願ったことでもあった。
時代に翻弄されながらも覚悟を持って自ら進んで変化に応じた美子皇后。手塚は、近代日本の女性の洋装化をめぐり皇后が置かれた状況に思いを馳せ、大礼服のデザインを解体し、ちょうど宮中の洋装化から間もない時期に皇后が詠まれた2首とともに再構成し、テキスタイル博物館テキスタイルラボで重厚感ある織物《親愛なる忘却へ(美子皇后について)》を織り上げた。

 
「外国のまじらひ広くなるままにおくれじとおもふことぞそひゆく」
(外交が深くなればなるほど、遅れまい、追いかけねばと思う)

 
「水はうつはにしたがひてそのさまざまになりぬなり」
(水は入る器の形によってさまざまに形を変える)

 
当時、皇后の心の内はいかがなものだっただろう。この2首の歌は必ずしも、直接欧化政策や洋装化についてのみ言及したものではないが、不安や躊躇、あるいは焦りといった揺れ動く心持をも読み込むこともできる。

 

手塚愛子の手法
既製布の糸を気の遠くなるような手作業によって引き抜きダイナミックなインスタレーションへと変容させる手塚の作品は観る者を惹きつけてきた。手塚はヒエラルキーがいまだに存在する芸術の領域において工芸的装飾的と位置付けられる手法を用いながら、しなやかにそしてしたたかに、モダニズム美術あるいは近代それ自体を考察し、わたしたちに問いかける。
本展のために用意された新作においては、手塚愛子の作品の代名詞とも言える織物の糸を解き再構成し、刺繍を施す手仕事的軌跡が必ずしもすべてに見られるわけではない。しかしながら、織物のデザイン段階において、手塚は「自分自身が針と糸になるような感覚」を味わったと語る。今回新たに織られた織物の厚み、技術者との協働作業のなかで適切に選択されたさまざまな質感の糸の波や重なりは、物理的にほどかれる前から、絵画と織物すなわち美術と工芸を、日本と西欧を、近代と現代を、一度解き、再検討し、編みなおす手塚の思考そのものを体現しているといえよう。
手塚は本展覧会のタイトルを「親愛なる忘却へ」とした。過去を、歴史を振り返る時、わたしたちはその記憶を、痕跡をたどる。しかしながら、記憶と忘却は合わせ鏡のようなもので、記憶の背後には忘却された何ものかが必ず存在する。だからアクセス可能な過去の痕跡だけではなく、不可視の忘却にも意識を向けたいという手塚の真摯な願いがこの言葉には表われている。忘却をめぐる物語はときに痛みを伴う。無意識の忘却もあれば、不可避の忘却もある。記憶を手繰り寄せるなかで、歴史を振り返るなかで、忘却に気づいたとき、それを美化し取り戻そうとするのではなく、その事例を生んだ状況を改めて見つめ、批判的に考察し、その過程を共有してゆくことが求められている。

層という異界へ、あるいは回復のための練習(テキスト:日比野民蓉)

日比野民蓉(国立新美術館研究補佐員)
2015年、東京

色材を重ねて正しいひとつの面を完成させる絵画。塗りこめられ重ねられる層のひと つひとつが持ちあわせているはずの時間や物語は、確かにそこに堆積されてはいるもの の、私たちの目に直接とらえられることはない。この、絵画を形成するレイヤーを文字 通り解体し、視覚化する方法として、手塚は「織りとしての絵画」をうみだした。糸が 織られることによって出来上がる布は、織りがほどかれることによっていとも簡単に原 型の糸に戻すことができる。私たちのまわりに溢れるほとんどすべてのものが、実は元 のすがたに還元できないという事実を考えてみれば、糸や布という素材は、非常に身近 でありながらも稀有な存在であることがわかるだろう。

大学の油画科に在籍し、絵画というメディウムの構造に着目した手塚には、「織りと しての絵画」に先行し、現在まで継続している刺繍の作品群がある。絵具の代わりに、 糸を用いてカンヴァスにかたちを描くことから、手塚の制作ははじまった。初期の刺繍 作品では、像の描かれたカンヴァスのすぐ裏に素材となる(なった)糸がすべてさらけ 出され、像の現れているおもてと、無数の糸が集まる裏を同時にみることができる。刺 繍によって、のりで固められてしまう絵画とは異なるしなやかさを、糸と布という素材 に意識した手塚は、おもてと裏、そしてその中間層という「異界」を共存させる織りの 解体へと、制作手法を展開していった。

手塚の制作でほどかれる対象となる織物は、百年ほど前のアンティークの布から、フ ァストファッションブランドのスカーフ、手塚自身がデザインし新しく織られた織物ま で、多岐にわたる。時代や地域、モティーフのさまざまな織物をほどきながらも、手塚 の制作の中心は常に、私たちの手からこぼれおちていく不可逆の時間をすくいあげ、世 界の構造と時間を解きほぐすことにある。

画面の中央部分だけを丸くほどいてしまう<Lessons for Restoration>は、パースペ クティブの中心、つまり消失点を解体し、ぼやかしてしまう作品である。透視図法とい う絵画の約束事をあやふやにし、私たちのものの見方の「回復ための練習」を図るこの シリーズは、この度フィレンツェという地の現代の土産品がほどかれることによって、 その意味を強化させた。一方、<Certainty / Entropy>(2014-, pp.158-159)は、イ ギリスの植民地支配下にあったシンガポールで、イギリスと中国、インド、マレーなど の文化が混ざり合って形成されたペラナカンの図様を引用しつつ、あいだに現代的な記 号を組み入れた織物をほどいている。BIO マーク、リサイクルマーク、卵巣の簡略図、 ピースマーク、放射能のハザードシンボルなど、現代社会をとりまく記号が金糸で織り

込まれた同シリーズの《Certainty / Entropy (England 6)》は、今回、まばゆい裏面が あらわにされることにより、構築と再構築の循環をより劇的に表現することだろう。

本展のための新作《Dear Oblivion 1》(2015)では、クリュニー中世美術館に所蔵さ れる《貴婦人と一角獣》とクロイスターズ美術館の《一角獣狩り》が参照され、豊かな 自然の中で戯れる動物たちを背景に、天蓋が開かれて姿を現した泉、そしてその泉に伸 びる二組の手が配されている。肥沃な大地、ひとが水で手を洗うこと、生命の根源であ る水を湧き出す泉に建てられた構造物の胴体が解体されていることなどはすべて、震災 後の私たちに宛てられた「親愛なる忘却」のためのメタファーである。食という生命維 持の根幹が脅かされることへの危機感は、ナチス台頭前の 1920 年代にドイツでつくら れ、実際に使用された生々しい痕跡を残すテーブルクロスをほどいた《Suspended Organs (Kitchen)》(2013, pp.156-157)にも共通する問題意識であった。

過去の織物やモティーフを解体することで、手塚は今現在の私たちのリアリティを、 視覚的に現前させる。そして、社会的、文化的、政治的、経済的なこの世界のありとあ らゆる成り立ち、ひいては私たちの心理的構造を解きほぐすことと繋がろうとしている。 潔く整然と引き抜かれた糸の束は、中身をさらすというのに、少しのとまどいも感じさ せない。そのあざやかさは、不気味さを伴いながらも、現実への希望を宿している。

“Thin Membrane Pictures Come Down” Text by Linda Schröer

Linda Schröer - Curatorial Assistant of Dortmunder Kunstverein, Germany, September 2014
(This text was contributed on the occasion of the solo exhibition “Thin Membrane Pictures Come Down” on 13th September – 9th November 2014 at Dortmunder Kunstverein, Germany.)

«When I am in the museums, I feel ghosts speaking to me. They are the ghosts behind the fabric: royalty and rulers, workshop managers, designers, thread dyers and weavers. They speak of hierarchies and processes, of wealth and strict working conditions. In these times, rulers aimed to display their power with the best techniques and the newest patterns.»
Aiko Tezuka

On April 24th 2013 the whole world was shocked by the pictures from Savar in Bangladesh when the nine-level building of the Rana Plaza plant, which was home to many clothing factories, collapsed and over 1000 people lost their lives. Only few weeks later a factory in the capital Dhaka, not far from Savar, burned down, and already in November there were reports of two more fires in local textile factories in the newspapers all over the world. These headlines were accompanied by the protests of the textile workers against their working conditions and their substandard wages, forcing many well-known textile corporations to a complete clarification of the origin of their products. A shift in the way of handling these textile workers became visible as a result: in a huge fund-raising campaign, C&A donated $500,000, KiK and Primark $1,000,000 each, whereas H&M planned to inspect their 700 subcontractors more thoroughly. On top of that, the statutory minimum wage was raised and tighter fire prevention, building and safety regulations were imposed. Bangladesh is, following China, world’s second largest textile producer; about 4500 factories produce roughly 80 p/c of the country’s exports.

This shows that, over the course of globalization, the textile production centres upon fewer and fewer countries, because large producers barely manufacture their products inside the countries where they sell them. Symbols, ornaments, patterns and fabrics are no longer evidence of individual culture, but meaningless mass designs by large corporations.

The textile objects and installations by Aiko Tezuka from Japan deal with the history of textiles and discuss it up until today. Thus she buys old fabrics, often in flea markets, but also clothing at huge chains of retail stores like H&M (Two Identical Scarves from H&M, extracted Threads #4), and takes them to pieces. By extracting several wefts or respectively warps, the fabrics lose their original form and colour, the former patterns are irretrievably destroyed. But the process of deconstruction is always an act of reconstruction: new forms and ornaments evolve, hidden layers inside the fabric are revealed almost surgically. The disbandment of the fabric into its constituent parts accentuates the impact of the single thread that only attains creative appeal in the network with other threads. The colour also emerges in a new quality: extracted from the mesh, the single tones shine, whereas they appear dulled in the overall context. This effect in the eye of the onlooker and the demonstration of colours being formed by single dots respectively lines connect to the concepts of impressionism and pointillism.

This shows that Aiko Tezuka’s works, although she was born in Japan, studied and taught there, is mainly influenced by a westward understanding of art and the European art history. This is also an example of globalisation, greatly advancing, beside the cultural communication, especially the economical exchange in the world. It leads to mass production and therefore to a throwaway society and the loss of awareness towards the historical value of textile production, whereas this development is not new in the 20th century. In some cases, identification of a particular fabric with a particular culture dissolved early and may go back so far that traditional Japanese fabrics have not only been lost entirely or barely preserved, but – despite modern technology – cannot be reproduced using original contemporary techniques. According to Tezuka, this upheaval begins in the middle of the 19th century in the course of the Meiji Restoration. During this time an appreciation of The West and a change in Japanese culture occurred: Western culture with all its accomplishments became a paragon and was aspired to be emulated, whereby many Japanese traditions – as before mentioned techniques of traditional fabric production – got lost. This new orientation also took place in painting, but rather determined by a way of fruitful exchange. This is evident in the movement of Japonism in the 19th century and paintings originating from the last quarter of this century by Paul Gaugin, Vincent van Gogh and Pierre- Auguste Renoir who formally or content-wise took up the new influence from Asia.

Such historic aspects are seized by the large-scale work Thin Membrane / Pictures Come Down that can be seen in Germany for the first time: 25 embroidered motives are assembled altogether on the transparent, 4 meters by 4.28 meters piece of cloth. These motives vary from illustrations of a cat’s cradle over depictions of a masterwork of European art or Egyptian clothing to Chinese landscapes and Japanese furniture decorations. Tezuka combines high and low art and especially accentuates the outlines of these images, showing mostly fabrics without the corresponding bodies in their various draperies. Thin Membrane / Pictures come down makes clear that the human history is a history of things and also of textiles. Fabric, respectively clothing, reveals facts about era, culture, origin, predominant style, class and gender. The images, embroidered by Tezuka onto the translucent fabric, pick up elements from painting, sculpture and tapestry and reveal close ties between these forms of art: whereas painting and sculpture were organised in guilds during the Middle Ages, the Renaissance and the strengthening of the individual as a consequence thereof transformed their appreciation into an intellectual work. The products of tapestry were seen as symbols of power and wealth from the ancient times on. Not only were they decorative, they also provided insulation when hung on the wall and were portable when rolled up. Frescos on the contrary were considered a tacky surrogate for the precious tapestry in the Middle Ages and the Early Modern Age. But as painting rose in prestige, the value of tapestry decreased and it remained a craftsmanship no longer valid as proof of ingeniousness.

Against this agreement and especially against today’s trends Aiko Tezuka endorses the aspect of the handmade: the three-piece series Operation, of which one work is shown in the exhibition, encourages the onlooker to re- enact the process of her artisanal work. This is not only achieved by the motives – knitting, operating and sewing hands – but also by stitching with dark yarn onto transparent fabric. The embroidered image can be seen in the foreground, but the threads on the rear side form a sketchy shape. Also the title emphasises the aspect of manual work: the term operation – Latin opus, meaning work – suggests the act of surgery, which originates from the Greek cheir for hand and ergon for work or labour.

As mentioned before, a similar change like the one of the craftsmanship affected the value of textile fabrics: Once a sign for wealth, today anyone can buy clothes anywhere. Therefore Aiko Tezuka is also interested in aspects like: what is the meaning of fabric and clothing to their owner and wearer? Which changes do they cause? Which individual stories are behind a piece of fabric?

In her new series of works Certainty / Entropy Aiko Tezuka turned her own designs into real fabric for the first time and thereby interweaves the chronicles of a society: Peranakan is the description for an ethnic community living on the Indonesian archipelago and British Malaya, now Peninsular Malaysia and Singapore, that combines Malayan and Chinese culture. During her research Tezuka learned that local fabric designs entail strong influences from the Colonialism: Irish and British motives were combined with Asian ones like exotic fruits or animals. Worth mentioning here is that the selection of motives focuses on three spheres of life: prolificacy, rich harvest and safety. The Peranakan Designs are a typical attestation of fabric closely entangled with cultural history. Aiko Tezukas own layouts seize their basic structure and combine traditional patterns, that for example symbolise Singapore’s rich flora and fauna, with internationally known symbols like the VISA logo, the Peace Sign and the “@” icon. But the symbols contradict themselves; they are icons of consumption (Master-Card), emblems of mass production of food and clothing (European Organic Label), they are symbols of life (uterus, DNA strand) as well as renewal (Recycling icon). Tezuka deals with lost history and the eternal cycle of raw materials, economy, life etc. through her fabrics, respectively her motives. An apparent contradiction, reflected in the title, where certainty is opposed to entropy.

Aiko Tezuka exposes in her newest works how we take up and use the emblems of our society without challenging them, buy clothes without knowing their origin, accept a food industry which impact on the environment is completely unclear and much else. Just as former fabric patterns and motives once were tokens of their era and significant carriers of meaning, today’s world wide used, more or less significant symbols are literal emblems and ciphers of our culture.

Aiko Tezuka was born in 1976 in Tokyo, studied painting in Kyoto and taught in Kyoto and Okayama until 2009. After that she went to London, moved to Berlin in 2011 and received a scholarship for the international studio programme of the Künstlerhaus Bethanien in Berlin in 2012. Aiko Tezuka currently lives and works in Berlin.

English editorial reading: Matthias Fabry

テキスト:正路佐知子

正路佐知子(福岡市美術館学芸員)
2014 年、福岡

油絵科で学び絵画に取り組んでいた経験から絵画構造に関心を持ち、既製の織物の糸を 解くことで、普段は見えない内側や織り込まれた時間を引き出していく。それが手塚愛 子の作品を語るクリシェである。しかし彼女の関心がその構造のみに帰結するのではな いことは強調しておいて良いだろう。糸を抜いてしまえばイメージごと消去可能な儚く 危うい刺繍を用い、作品に意味を織り込むことで、近年の手塚の作品は豊穣な世界を紡 ぎ出してきたと思われるからだ。

2007 年頃まで手塚は日本古来の文様やケルト文様などを組み合わせ図像化し刺繍して いたが、この頃のイメージの選択には、絵画の歴史や図像の起源、あるいは絵画/工芸 という分断に対する違和感および関心が窺えた。2008 年の《層の機》や 2009 年の《落 ちる絵》でも、名画から切りとってきた図像や衣服の襞、編み模様、文様等を組み合わ され、絵画をめぐる問題意識が健在であることを示すが、2008 年以降、身体の一部を 刺繍することで手塚作品は一気にわたしたちのリアリティの傍らに降りた。たとえば 《skim》では、液体をすくう手を象った赤い刺繍糸が床まで垂れ下がり、刺繍枠に張ら れた白布がまさに上澄みの如く存在し、表面だけに目をやりがちなわたしたちの現状を 暗示する、というように。

刺繍されるイメージと糸を抜き刺しする行為、それによって暴かれる内部、という手塚 作品の構造は、数年前の大きな出来事を経て浮上した不可視の驚異/脅威と結び合わさ れ、社会的意味を帯びながら複雑に絡み合うことになる。とくに 2011 年以降の作品に おいては、遠く離れた故郷の社会に対する違和感や疑念を読み込むことも可能だろう。 たとえば 2012 年の《Lessons for Restoration (sewing up)》では薄く透ける布に縫い 物をする複数の手が刺繍されるが、刺繍糸はすべて前面に垂れ下がり、隠すことの不可 能な傷跡や繕ってはみるもののどうしても露呈してしまう現実を示唆しているように も思えるのだ。

今回久し振りとなる日本での大きな展示に際して、手塚は現在の率直な思いを作品に込 めていった。血液を想起させる赤い壁の上部には、不可視の液体を垂れ流す竹筒と塩ビ 管が設置された。想定される液体は言わずもがなであるが、その直接的なメッセージの 下には 1900-30 年代のドイツで使用されていた布製品に手を加えた作品が並べられた。 染みや黄ばみなど当時の人々の営みそして気配が残る織物に手塚は刺繍を施し、または 糸を解いていく。わたしたちが歴史的に抱え込んだ内なる痛みや日常に潜む危うさを、 畸形の心臓やアイマスクをして食べる人の図像によって暗示し、ひと針ひと針刺すこと で現代へと蘇らせる。過去は現在と切り離すことはできないはずだが、どこかで釦を掛

け違え変調をきたしてしまったこの社会で一体何が起きているのか、それを考えるヒン トになり得ると信じて。それは痣の定義が各国の言葉でプリントされた 2 種の作品にも いえることである。片側は赤い壁面中央のドイツの古びたテーブルクロスに、もう一方 では 6 種のゴブラン織の緯糸を解き、色鮮やかな赤い糸を抽出する《Suspended Organs (bruise)》の中央の薄い布に印刷されている。その形状は、実際に手塚の身体に現われ た痣が元になっているために、個人的な痛みと社会の痛みの交差する地点ともなる。薄 い布は背後の数種の赤い色糸の存在を浮かび上がらせ、痣=内出血する肌のようにも見 える。《デジタルとアナログ》と題された対作品は、ゴブラン織から縦糸を解き、解か れた緯糸のみでメッシュ地に肛門の形が刺繍される。タイトルからも刺繍されたイメー ジは明らかにされないが、精緻で無機的な織物から有機的な何かが溢れ出るような形状 が生まれることにより、不可解な生々しさばかりが増幅されている。最後に、展示室の ショーケースを使ったインスタレーションは、本展覧会ならではの試みとして《想像し なおす》と題された。福岡市美術館が所蔵する古美術作品を安価な大量生産品と併置す ることによって、現代社会が抱える問題のみならず、物に対する敬意と守り抜いてきた 人々への敬意、物を生み出した人間の原初の動機、そして美術館という場が抱える制度 など、さまざまな問題について再考を促す空間となった。 手塚が今回試みた広大な時間との対話は、手塚の作品を通して、わたしたちの今後へと 送り返される。

テキスト:松本透

松本透(国立近代美術館 副館長)
2009年8月

文化庁新進芸術家海外研修申請者の手塚愛子は、既成の織物を利用して、多くは絵 画的かつ立体的なきわめてユニークな作品を作ることで注目されている新進作家であ る。とりわけ VOCA 展(2005 年)で佳作賞を受賞後は、岡崎市美術博物館、愛知県美術 館(以上、2007 年)、東京都現代美術館、国際芸術センター青森、群馬県立近代美術館 (2008 年)、豊田市美術館、東京都庭園美術館(2009 年)など、毎年、各地の公立美術 館が開催するテーマ展に招待出品し、そのつど期待に違わぬ力作を発表している。

手塚愛子のここ数年来の作品は、織物という縦糸・横糸の織りなす構造物から、た とえば一定の糸を抜き取って立体的・空間的な(しばしば巨大な)作品へと転じたり、 あるいは抜き取った糸を元の織物にフィードバックさせて、その上に別のイメージを刺 繍するといった、かなり複雑な方法によるものである。元になった織物の解体と再構成 をへて、既製品と芸術、工芸(織物)と美術、絵画的イメージと空間的構成物といった 複数の意味を併せもった、まったく別の何か(現代美術)が生まれるわけである。日本 の美術界では、それらは時に「工芸的」と見なされることがあるようだが、まったくの 誤解といえよう。むしろ構造的思考と、絵画的色彩設計と、建築的な空間形成が一つに なった、現代美術の、すぐれてコンセプチュアルな新しい方法と見るべきなのである。

志願者は、五島文化財団の奨学金を得て、今年の冬から 1 年間にわたって欧州に滞 在する予定であるが、さらに 2 年間、ベルリンを本拠地にして制作を続けたいという希 望を強くもっている。彼女はすでに、海外でも類例のない独創的な手法を推し進めつつ あるが、日本とは比べものにならないほど競争のきびしい欧州で研修し制作を続けるこ とは、彼女の作家としての将来に資するものが大きいと期待される。

以上の理由から、海外研修候補者として手塚愛子を推薦いたします。

The inner scheme of fabric Text by Christina Lehnert

Christina Lehnert - Assistant Curator of Kunsthalle Bielefeld, Germany, December 2012
(This text was contributed on the occasion of publishing the catalogue “Rewoven - Overflow” in 2013.)

Each time that I visited Aiko Tezuka’s studio, her walls were always full of schemes and maps of many different things. A submarine, a Polynesian stick chart, an anatomical sketch of scoliosis, a nuclear power plant, instructions for stitching and more.

What the different diagrams have in common is that they are an abstraction of something concrete. They are graphic renderings that describe the structure of a location, a body or a nuclear power plant, similar in appearance to an embroidery pattern or some kind of geography.

These diagrams, while implying the represented object, are themselves only imaginary. It is this in-between state of actually being something (a graphic on paper) and simultaneously pointing toward an external object or concept, in which one sees a representation of something real. The maps and schemes show structure, they define the elements that something is composed of. These types of abstractions take away details of lesser importance, in order to provide a clearer view of an object or form.

Aiko’s work does not deal with diagrams; her practice is based in fabrics. Fabrics are usually directed towards an end-product such as clothes or furnishings. Therefore they function to add up to something else. A fabric rarely refers to itself simply as a fabric; moreover it usually refers to something more complex, so it is an element which is used for something.

Aiko, however, has a reverse view of fabrics. She takes the fabric and dissects it according to its own principles – the threads. Like a cartographer, she shows the inner structures of things. The chosen fabric can be considered a readymade, which she does not take to be a static entity, but rather attends to it to visualise and dissect it into constituent parts.

The different types of fabric that she uses are not diligently manufactured or the outcome of certain precise processes. Mostly, they are fabrics that are either objects of utility or simple mainstream souvenirs, such as the Gobelin- esque views of Canale Grande in Venice and fabrics that one in Germany would deridingly name: ‘Gelsenkirchener Barock’.

Aiko unravels threads or extracts certain coloured threads from the fabric, so that the designs or the woven motifs fade out into a blurred image of what they originally depicted. The outcome of the unravelling process shows something that is usually invisible, since the threads only gain in importance once they come together, to constitute fabric with its different motifs or images.

By unravelling the thread by hand, Aiko applies an arduous and painstaking method that is far from the actual process of the industrial production from which the fabric originated. The discrepancy between Aiko’s work with her hands, and the machine-produced fabric is taken one step further: in some of her works she reconnects the threads again by re-using them for her own stitching. This is a very poetic transformation in a way, to re-engage material, which evolved originally from an industrial work and to make a new piece of work from it.

She once told me that she wanted to show what one cannot see. Therefore she works with fabric as opposed to making paintings, because it has the quality of being able to be opened up and reveal its constituting layers. By re- using fabrics, Aiko engages with the meaning of fabric itself, its cultural heritage, its designs, the origin of motifs and the globalised market of industrial productions.

Over time, intercultural transfer has led to the exchange of motifs, so that no design pattern of fabric is original in terms of a country of origin. This is even more pronounced in times when Western culture seems to be viewed as being state-of-the-art.

Therefore the fabric that Aiko uses could be seen to symbolise the constituent parts of where a traditional motif or a design comes from and the act of unravelling those bonds as an attempt to show the compositions that our cultures consist of in its fragments.

Returning to the maps and schemes, one cannot deny that the underside of an embroidery appears very much like a map or a scheme. Similarly, making invisible structures visible are functions that these types of plans also have. While the deconstruction of its intended appearance is in one way a careless or destructive act, the thoughtful unravelling and re-enaging of the threads in Aiko’s work could not be more mindful.

<現代アートの現場から(縦糸を引き抜くー五色)>

テキスト:高階秀爾(大原美術館館長)
(「本」No.47、表紙解説 2009年)

円形に張られたゴブラン織の織物から、縦糸だけを引き抜いて束ねる。それも隣り合うふたつのパネルからそれぞれ赤なら赤、青なら青と一種類の色糸だけを引き抜いてまとめているので、全体で五彩の色鮮やかな糸の花束が生まれる。横一列に行儀よく並んだパネルをふたつずつつなぐその花束は、わずかなふくらみを見せる整然とした曲線模様の優雅さと、何よりも混ざり気のない純粋な色彩の輝きで見る者を惹きつける。どちらかと言えば比較的地味で複雑な色調の織物のなかに、このような鮮麗な色がひそんでいようとは、容易に予想することはできない。実際にその成果を眼のあたりにすると、まるで蛹(さなぎ)が華麗な蝶に変身するのを見るような快い驚きと、賛嘆の念を覚える。卓抜な構成と言ってよいだろう。

だがそれだけではない。糸を引き抜くという行為は、縦糸と横糸を織り合わせて作られる織物を解体し、その構造を明らかに示してくれるが、同時に色彩の持つ妙味、その秘密をも解き明かして見せるのである。織物はさまざまの色糸の重なり合いから成り立っているが、それは、例えば小豆と大豆を混ぜ合わせた場合のように、別々の色が混在しているわけではない。五色の、さらにはそれ以上の種類の色糸はひとつに織り合わされることによって、まったく新しい色調を生み出す。そのことは、さまざまの種類の顔料を並べ、重ねることによって描かれる絵画作品の場合も同様であろう。

そもそも「絵画」という言葉は、今では英語の painting に対応するひとつのまとまった概念として用いられているが、元来「絵」と「画」とは別物であった。「画」とは、その文字のかたちからも想像されるように、もともと線によって区分けすることを意味した。つまりデッサンである。それに対し「絵」は、糸が会うというその文字の示す通り、本来は織物のことであった。さまざまの糸が出会って、ひとつの新しい「絵」の世界が構成される(手塚愛子は、かつて「糸 会」と題する作品を作ったことがある)。そこから生まれて来るのは、奥深い色の世界である。

織物を解体するというのは、きわめて知的な操作である。そこに色の秘密を見出すのは感覚の豊かさであろう。手塚愛子は、本作品に見られるような明晰な秩序への意志と豊麗な色彩感覚によって、現代アートにひとつの新しい扉を開いたのである。

 

2009_HON_Text by Shuji Takashina_rq

決断の集積、そして軽やかな覚悟(テキスト:八巻香澄)

八巻香澄(東京都庭園美術館 学芸員)
(この文章は、2009年に東京都庭園美術館で開催された「Stitch by Stitch 針と糸で描くわたし」展のカタログから抜粋されたものです。)

まずは、刺繍や織物という概念を文字通り「壊す」手塚愛子からはじめよう。

通常は見せない裏面の糸を剥き出しにした刺繍や、すでにできあがっている織物からわざわざ糸を引き出して解体する作品(Fig.1)はとてもスペクタクルだが、テキスタイルの新しい表現を通じて素材や技法の可能性を開く、といったような所作ではない。手塚は、これらの作品を通じて「絵画」を解体している。

 なにかの表面に線や色を乗せれば、それだけで絵画は生まれる。そこに絵画があれば、人はその表面の色面だけを見て理解してしまう。しかし重厚な織物が解かれた時、表面にあらわれている色だけではなく、何重にも重なっている糸の色を見るという体験は、表面のイメージのみを見るという絵画鑑賞のモードを解除させる。

同じく刺繍の作品においても、布の裏表を往還することで図像を描く刺繍の特性に注目し、通常は隠されているはずの裏側を見せ、糸の存在を剥き出しにした。これもまた、絵画というものを成立させている「表面」を無効化し、糸の重なりと布とその裏を交差する糸の重なり、という物質に還元することによって、絵画(イメージ)を解体させる試みである。

 手塚にとって糸は、構造とイメージという、相反する状態をつなぐ両義的な存在なのだ。

 そしてまた、「絵画」や「芸術」という表現が生まれる以前の根源的な状態から現代までをつなぐ、歴史の糸口でもあることが、そこに描かれるモチーフの選択から伺える。初期の作品には古典的な蓮の花や更紗文様など日本や東洋の染織文化に基づく伝統的なイメージが採用され、《grid》シリーズでは、東慶寺の水月観音やベルニーニの彫刻《聖テレサの法悦》の裾のドレープが登場し、美術作品の系譜をさかのぼる。そこに、糸や布の起源やそれらが織り出してきた人間の文化そのものなど、歴史的な視点から織物や刺繍を捉える手塚の態度があらわれている。

 そして油絵《空白と充満を同時にぶら下げる》(2004年)にはヨーロッパのレース文様とインドの更紗文様が、MOTアニュアルに出品した大作《層の機》(2008年)には、コプト織や上代裂の文様、フランスの装飾パターンなど、さまざまな土地や時代のモチーフが併置されているのを見るとき、現在私たちが「美術」と呼ぶところのものが相対化されているのを感じるのだ。

 この傾向は2008年に国際芸術センター青森にてレジデンスプログラムに参加し制作した《Bags》において、さらに強められている。《Bags》の袋には、近代のパラダイムの中で生まれた単語やこぼれおちた言葉(「ごうり(合理)」「しょゆう(所有)」、または「けつぞく(血族)」「じゅそ(呪詛)」「いくつものかみ(幾つもの神)」など)が日本語と英語で刺繍され、また別の袋には何かを掬い取るような手の形が描かれている。このむすぶ手の形は「絵画」や「美術」といったくくりでは捉えきれない、表現のはかなさや力強さの象徴として、《skim 1》にも登場する。

 新作《落ちる絵》(2009年)においても、表現をめぐる3つの世界が示されている。一つはベラスケスの《ラス・メニーナス》やフランソワ・ブーシェの描く人物像の衣のドレープだけを抽出した線が表す、西洋美術の歴史。二つ目は《天寿国繍帳》や更紗文様が表す、日本やアジアの染織工芸の伝統。そして最後に、あやとりをする手やオシラ様の図像、編み物の編み図が示す、地域信仰のかたちや手芸など、一般の人々による造形の系譜。作家はこの3つの世界に等しく共感と尊敬の念を込めながら、「表現」の歴史そのものを捉えなおす試みを続けている。

布と袋(テキスト:近藤由紀)

近藤由紀(国際芸術センター青森 学芸員)2008年、青森

手塚愛子は絵画から出発し、「絵画」について意識的に制作を行っているが、その作品は糸と布(刺繍・織物)を使った作品としても知られている。手塚が作品の素材としてこれらを選択するようになった理由の一つは、作品において「両義的な状態」を表すことを試みたからだという(註1)。二つあるいは複数の意味や状態や、それらの間に在るもの、あるいは間そのものを運動とともに喚起しうるような表現を求めた手塚の作品では、布は解体されて糸となり、その糸は再び別の構造を持ち始める。この解体と構造化の二つの状態を同時に持つことが手塚の作品全般に共通する特徴であり、それは様々な方向から繰り返し示されている。

例えば、《糸 会》(2007年)(fig.1)では、ゴブラン織りの緯糸が引き抜かれ、解体されている。糸を引き抜くことで、あたかも織りの最終的な一層だけを剥がし、その下にある層構造を喚起させるようなこの作品では、それぞれの色の糸が織り重ねられて一枚の図像となっていく時間を遡及的に表しているかのようである。一方《層の絵―縫合》(2008年)(fig.2)では逆に、素材としての糸を中央に晒したまま両端に異なる図像の織物(しかも複数の文様や図像が重なり合っている)を作ることで、糸から織物が形成されていく順行する時間が示しながら、表面の図像がもつイリュージョンを解体する。この糸と織りの状態と時間は、同じ赤い糸によって刺繍された反転する文様面と、やはりその裏側を生々しく剥き出しに晒した糸をメビウスの環のような構造でみせる《薄い振幅》(2004年)(fig.3)において、循環する無限の運動の中で表されている。《空白と充満を同時にぶら下げる》(2004年)(fig.4)は、手塚が布や糸を使った作品と平行して制作している「絵画」作品であり、レースや織物に用いられる伝統的文様が描かれた油彩画である。ここでは糸と布は使われていないが、キャンバスという「布」の上に本来なら織られて作られる図像を描くことで「布の上の図」としての絵画と織物を並置させ、その境界を曖昧にすることで、絵画の物質性をも想起させる。これらの作品では平面上で結ばれた像の裏側を同時に顕したり、途中の状態を晒したり、像の属性を曖昧にしたりすることで、その状態を宙吊りにし、ある平面の上で完成された像としての「絵画的」イメージを崩そうとしている。布や糸はこうして選ばれた素材であり、したがって、手塚の作品は糸と布を用いているとしても、絵画に対して意識的な作品であるということができる。

とはいえ、手塚の作品はそのような形式や構造にのみに特化した作品ではない。作品を制作する際、その素材や形式を所与のものとして無邪気に受け入れるのではなく、その自明性を疑い歴史を再考しながらも、それを否定するのではなく、前世代の試みを批判的に継承しつつ、別の肯定を与えようとする。この際その拠り所を「古来~」あるいは「人間がもともと~」といった発生の状態まで遡って検証しようとする姿勢は、同時代的な傾向であるともいえるだろう。それは例えば絵画によって絵画を語るメタ絵画的な試みが出し尽くされた感のある世代としての選択なのかもしれないし、世界を虚構の表層的反復とみなすポストモダニズム的な態度に対する揺り戻しなのかもしれない。いずれにしてもそこには芸術の歴史についての意識と自覚があると同時に、「絵画」について、そして「芸術表現」それ自体についてのエッセンシャルな問いかけがある。この二つの問いかけは手塚の作品における二つの軸として作用していると思われる。前者はいわば「絵画」という一つの表現様式について言及するものであり、構造へと向かうそのあり方はモダニズムを歴史的に経験した世代であることが意識されている。一方後者は原初的な人間の創作衝動が「作品」として成立する「芸術の発生」を探ることで、表現それ自体を追求する。今回国際芸術センター青森で制作された袋の作品は、手塚が近年発表している織物を解体する作品に比べ、後者の軸へと触れた作品であるように思われた。

今回制作された作品《袋》は、いくつかの作品といくつかの民具から構成された。メインとなる作品は展示空間の中央に下げられた七本の「袋」である。白い三本の筒型の袋はそれぞれの表面に刺繍が施されているのだが、それぞれの刺繍糸はだらりと長く垂れ下がり、袋の底から零れ落ちるように床に垂れている。手前の袋には黄色、緑、ピンクなどの細い糸によって幾つかの単語が日本語と英語で刺繍されており(fig.5)、これらは「近代」という時代のパラダイムによって生まれてきた単語として選択されている(註2)。これらの単語は細い糸によってひらがなで刺繍されているために、場合によってはそれらが単語であることに気がつかないかもしれない。奥にある袋は判別をより困難にする白い糸で刺繍されており、文字の意味内容の強さとその現れは対照的である。同じように袋の底が裂けて、糸を零している袋はもう一つあり、こちらは文字ではなくピンク色の糸で手の形が刺繍されている。これらの手は何かを掬うような、あるいは何かを受け止めるような形をした両手であり、その刺繍された手から垂れ下がる糸は、あたかも手の平からなにものかが流れ落ちているかのようである。これら三本の袋の間に黒く柔らかい布で作られた袋と金色のメッシュの布を使った袋が天井から下げられている。黒い袋は底が完全に開き、床の上で優雅な円形のドレープを作っている。糸が零れ落ちた袋との対比により、底が完全に崩壊し中身が勢いよく落下している袋のようにもみえる。これに対し金色の袋は唯一完全な袋の形を保っているが、目が粗く、光に照らされ金色に光る袋は、淡い空気感を纏い、質量を感じさせない。こうして全体をみると、それらは袋が破れ、中身が抜け落ちていく状態が段階的に示されているようにも感じられる。いずれにしても何物かを包んで保っておくには儚すぎる袋の在り様は、象徴的ですらある。

ところで手塚は、今回の作品を制作するにあたり、自作との関係において青森でかつて使われていた織物や刺繍といった民具を調査することから始めた。この過程で北海道東北民具研究会会長田中忠三郎氏および、旧青森市歴史民俗展示館稽古館(註3)のコレクションであり現在青森市教育委員会所蔵の様々な布や袋と出会った。そして最終的に田中氏から古い麻袋(fig.6)を、市教育委員会からは南部菱刺し(fig.7)を借用し、手塚の作品とともに展示した。これらの布製の民具はいずれも貴重な生活用具であったのだろう。補修、補強のために、あるいは防寒のために、麻布や木綿布を何重にも重ねて縫い付けていたり、何層にも重ねて刺繍がなされたりしていた。一方でこうした作業は単なる機能主義的に行われていただけではなく、呪術的な意味での文様や色彩の選択や、「遊び」やデザインといった遊戯的要素をもっていた。例えばある民具は、布や糸を何世代分も重ねて縫い付けることが、歴史や血縁といった縦軸の時間の人と人との繋がりを物として現し、手にすることとして捉えられていた。つまりそれらは実用的な道具であると同時に、ある種の信仰の対象(宗教という意味ではなく)でもあった。そうした祈りにも似た思いが込められた民具たちは、芸術作品とそうでない物とが未分化な状態、あるいは「芸術作品」の原初的・発生的な「形」について考えさせられる「物」でもあった。

こうした民具との関係が具体的な形となって二つの作品が制作された。ギャラリー奥に展示された袋の作品(fig. 8)は、この民具の麻袋を模して作られた。「現代版麻袋」ともいうべきこの袋は、海外の有名ブランドのバッグの布を模し巧妙に変化させたロゴ、似非ジャポニズム風の筆文字の平仮名、迷彩柄、アニメーションのキャラクター、似非ヨーロッパ風の小花などがプリントされた、いずれもオリジナルの何かを表層的に模したイメージが印刷された新品の布の継ぎはぎによって作られている。それぞれが模したオリジナルの柄にはさまざまな歴史や意味があったのだが、これらの布はそうした層をすべて捨て去り、表層的な面だけを取り上げ消費している。

もう一点の作品は、刺し子のお手本の布の上に、ピンクの糸で袋から何かが零れ落ちている手提げ袋が刺繍された作品である(fig. 9)。この布は指示通りに刺繍をしていけば、だれでも刺し子を作ることができるというものであるが、民具としての南部菱刺しと並置されることで、我々の世代が受け継いだものと受け継がなかったものを暗示させる。

手塚はこれらの作品によって、現代工芸や手芸愛好、現代社会の趣味・趣向や消費社会の在り方を批判しているのではないと明言する(註4)。ただ、我々はもはやそれらの袋や布が作られ使われていた時代に、その精神構造に戻ることはできないだけである。信仰の形にも似た民具と並置させることで、我々の時代が時代としての枠組みを作る過程で選択してきたものと、そこから零れて落ちてしまったものがあるということを静かに提示しようとしているのである。そしてこれは何かをひとまとめにしようとした袋が次々と破れ、中のものがはらはらと零れ落ちている袋の作品のコンセプトへとつながっていく。こうして《袋》は、具体的な何かの境界を指し示すようなものとしてではなく、物事を理解し、識別する上での枠組みあるいは形式としての観念的な袋として中空に浮かび上がっていく。

ところで手塚がこうした袋の作品を制作したのは今回が初めてではない。ある形式が生まれること、そしてその境界面が崩れていくこと、あるいはそれらが同時に存在する状態として袋は繰り返し手塚の作品のモチーフとして登場している。今回その袋が民具とともに展示されることにより、芸術の領域や形式についての問いかけは、人間が作り出した何物かが「芸術作品」となる場面のような、その発生に遡る精神的な領域についての問いかけとより結びついたといえるのではないだろうか。今回選択された民具はまさに実用のものである。それらの用途、信仰は、現実の生活と深く結びついており、虚構や芸術のための知的ゲームとはかけ離れた存在である。一方で手塚は博士論文の中で絵画が持つ時間的・歴史的な層構造について「モンドリアンの格子の隙間から牛の角が引き出され、劉生の麗子像の下には琳派やルネサンス絵画がその姿を覗かせる」(註5)と表現している。ここではモンドリアンが根源的な原理を探求し、世界を還元的に表そうとした試みは、世界と自己に対する認識の探求という点において、原初的な創作衝動と重ねられている。そこには手塚の「絵画」という一見閉じたようにみえるメディアについての探求と芸術の発生における人類の根源的な探求が、現代の芸術のあり方として、人間の生へと向かおうとしている点で重ねられていることがみてとれるだろう。同時にこうした原初的なるものへと向かうものが、単純なプリミティビズムからくるのではなく、引き受けなければならない歴史を背負った上での志向であることがみてとれる。したがって、手塚は青森で出会った民具を有難く珍しいものとして受け取ったのではなく、それらの物に宿る隠された層としての同時代性を見出したからこそ、共に展示したといえるだろう。

物事が零れ落ちる袋は、何ものも掴むことのできない虚構の袋ではなく、緩やかな制度、形式であり、それが絶対でないにしても、何物かを掴むための袋である。掴むと同時に零れ落ちる両義性は、その曖昧さを表明し、世界のあらゆるものを虚構として捉えるものではなく、世界を肯定的に受容しながら新しい時代に生まれ行く、生成するダイナミズムの形を示しているかのようである。

 

(註1)手塚愛子「織りとしての絵画」(博士論文、京都市立芸術大学)、2005年。

(註2)制作中の作家本人の説明による(2008年5月)。

(註3)青森の民具、民芸およびアイヌの文様、工芸に関する充実したコレクションを多数所蔵し、展示する博物館であったが、2006年を持って閉館された。この館の館長であった田中忠三郎氏はこれら民具の研究者であり、個人コレクターでもある。今回の展覧会にあたり、田中氏および旧稽古館学芸員の三上洋子氏に作品の貸出協力のみならず、多くのご助言、資料提供等を賜った。ここに謹んで御礼申し上げたい。

(註4)展覧会初日のアーティスト・トークでの発言(2008年6月14日)。

(註5)前掲書(註1)、42頁。

解きほぐすとき(テキスト:西川美穂子)

西川美穂子(東京都現代美術館学芸員)2008年、東京
(この文章は、2008年に東京都現代美術館で開催された「MOTアニュアル2008 解きほぐすとき」展のカタログから抜粋されたものです。)

 

5.構造の可視化

目に見える世界を疑い、確かめる手段として、その裏側や構造を覗いてみるという方法がある。手塚愛子(1976年生まれ)は、織物を解体することでその構造を顕在化させる仕事をしてきた。《縦糸を引き抜く 新しい量として》(2003年)、《縦糸を引き抜く-五色》(2004年)は、いずれも既存の織物の縦糸を引き抜き、おもてに現して見せたものである。それぞれの副題が示すとおり、落ち着いた色合いのゴブラン織からは想像できないような鮮やかな糸が、塊や色として目の前に引き出される。織物は、縦糸と横糸とによって面を形成し、その組み合わせによって図案が表される。身の回りのどんな布製品も同じだが、あらためて普段おもてからは見えない縦糸と横糸による構造が明らかにされることで、新鮮な驚きが与えられる。本展出品作以外に手塚は、既存の織物をほどいた《弛緩する織物》(2005年)*(11メートルの解体された織物の糸が弧を描いて床に広がる)や、二枚の織物のほどいた糸をさらに織り直した《織り直し》(2005年)*などで、絵画と織物の構造を意識した作品を発表している。

手塚は大学で絵画を専攻していたが、3年の時、刺繍を用いた作品を制作したことをきっかけに織物を素材とする作品へと発展、以来絵画と平行して織物による表現を続けてきた。外側しか見ることのできない絵画が含む時間や過程、素材をどのように見せることができるかという問題意識から出発しているのである。《糸 会》(2007年)は、織物の縦糸を抜き、カンヴァス用の木枠に張った作品である。ほどかれたことにより輪郭がぼやけ、色が滲んだ模様は、新しい絵画として生まれ変わる。絵画の「絵」という漢字は、「糸」が「会う」と書く。手塚の作品は、物質としての色が出会い、合わさることで成立する絵画の構造を再確認させる。《薄い膜、地下の森》(2007年)*は、「薄い膜」=直径7メートルの円形の布に施された刺繍の5万本の糸が垂れ下がり、「地下の森」を形成しているインスタレーションである。糸の森をさまよった観客が外へ出てその表面を確認すると、それがケルトや日本の文様が融合した刺繍を形成していることに気づかされるのである。刺繍は、ほどいて元に戻すことが可能な糸の集まりによって絵柄を構成する。手塚は刺繍のおもてと裏を同時に見せることで、薄い膜としての絵画の多層的なあり方について言及する。また、織物を解体することで構造を顕在化し、織り込まれた時間を引き出して見せるのである。

これまで、時間を遡って素材に還元するという方法を取ってきた手塚だが、引き抜いた糸を刺繍し直すなど、解体の後に再構成する作品の制作を経て[1]、本展で初めて糸を織物へと昇華させている。新作《層の機(はた)》は、手塚が制作した図案を機械織で織物にし、まだ織られていない部分の縦糸を残したまま見せる作品である。色とりどりの縦糸が天井に伸び、巨大な織機の前で制作途中の織物を見ているような感覚を起こさせる。ここでも手塚は、縦糸と横糸の組み合わせで平面を形成し、図柄を編み出す織物の構造を顕在化して見せた。織られているのは、古今東西の様々な文様と襞表現が重なり合った図案である。エジプトのコプト[2]の貫頭衣に施された図案(7世紀、9-10世紀)、正倉院宝物の上代裂の染織文様(奈良時代)、桃山時代の亀甲文、19世紀フランスの装飾布の文様など、場所や時代の異なる様々な文様を採用し、何度も重ね合わせ融合させている。さらに、中宮寺の半跏思惟像(飛鳥-白鳳時代)、東慶寺の水月観音像(鎌倉時代)の裾、ベルニーニの彫刻《聖女テレサの法悦》(17世紀)のスカート、ギリシャのプラクシテレス《ヘルメスと幼児ディオニュソス》(紀元前4世紀頃)の布、カラヴァッジョによる絵画(17世紀)に描かれたカーテンなどから襞の表現を切り取り、文様の上に重ねている。重なり合った文様がこれらの襞表現とも融合し、襞の陰影に沿って文様が貼り付いている。

博士論文「織りとしての絵画」において手塚は、自身の作品を語る上で、まず糸と布、織物の歴史を紐解いている。糸を織ることで平面としての布を手にした人間は、それを敷く、掛ける、着ることで生活を豊かにしてきた。そこに織り込まれる絵柄や文様は、住居や衣服を彩る装飾として、あるいは祈りや伝達のためのメッセージとして機能する。文様は植物など自然から採用されることも、すでに記号化した文様の組み合わせでできることもあるだろう。いずれも、人々の伝えたい想いが形となって表されたものと言える。文様は、異なる文化が融合する中で変化し、新しい型が作られていく。作品の中で様々な文様を重ね合わせる仕事をしてきた手塚は、異なる地域間で文様が伝達されていく軌跡を制作の中でじかに感じ取っているという[3]。油彩《空白と充満を同時にぶら下げる》(2004年)で手塚は、インド更紗に見られる文様とヨーロッパのレース模様とを同一平面上に表し、時代や地域による分類を排除し、それらによって抜け落ちてしまう空白を掬い上げる試みをした。このたびの織物のインスタレーションでは、さらに地域、時代、宗教や文化の異なる文様を幾重にも重ね合わされた。私達は普段、歴史の線上に物を見、分類する。手塚の作品の中ですべての文様は、所属する文化の背景の違いにかかわらず、画面を構成する一要素となる。個別の文様が持つ意味が一度剥ぎ取られ、等価なものとして手塚の手で再構成されるのである。出会わないはずの出会いを起こすことで、予定調和からずれたところにある何かを表現しようとしているとも言えよう。手塚の制作は、文様が生まれる時の、あるいは文様を布に織り込む際の人々の欲求や想いに近づこうとしているようにも思われる。他の出品作家同様、手塚もまた、すでにそこにあるものに光をあて、見えにくいものを可視化しているのである。

もう一つの織物の新作《層の絵-縫合》では、同じ縦糸を共有する左右異なる図案が表されている。左は東洋的な文様の上にヤン・ファン・エイクによるゲントの祭壇画から採った聖母のスカートの襞などが貼り付いており、右は西洋的な文様の上に東慶寺の水月観音の裾の襞などが重ねられている。格子の布から引き抜いた糸で刺繍した《grid – eyck》と《grid – suigetsu》も同モチーフを用いている。エイクと水月観音の襞は、元々異なる質感や奥行きを持ちながら、線のみに還元するとその形は等しく同じ「襞」として見えてくる。絵画にしろ、彫刻にしろ、衣服の襞は、その主題に付随する二次的な要素であるにもかかわらず、どの時代にも熱心に描写されてきたことがあらためて見て取れる。襞は、布の立体的な側面を浮かび上がらせる。伸ばしてしまえば一つの平らな面でしかない布が、襞を持つことで立体的で有機的な形態と陰影を与えられる。主体と客体の間にある境界が波打ち、おもてと裏が交互に代替可能なものとなる時、立体的な世界が把握可能になる。主体と客体は分かちがたく表裏一体であることが認識されるのである[4]。表層であるところの絵画の奥に秘められた色と形の重なり=「層」をテーマに制作を続けてきた手塚の新たな展開をここに見ることができよう。

 

[1] 格子模様の布が作る線の部分の糸を引き出し、その糸で引き出した布に刺繍をする《途中の遣り直し:格子をほどく》(2007年)*。ストライプの布から糸を引き出し、やはりその布に様々な文化から引用した文様を刺繍した《気配の縫合-名前の前に》(2007年、府中市美術館公開制作)*など。

[2] 「コプト」とは元来、エジプトのナイル川上流・中流の乾燥した地帯に土着のキリスト教徒を意味し、3世紀頃から12世紀頃のコプト人による文化を指す。手塚は、アラブ人がもたらしたイスラム文化との拮抗の中で、異なる文化と融合しながら築かれたコプトの独特の文化に関心を持っている。

[3] 筆者から作家へのインタビュー(2007年12月1日)

[4] Deleuze, Gill, Le Pli Liebniz et le Baroque, 1988(ジル・ドゥルーズ『襞:ライプニッツとバロック』宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)におけるライプニッツの哲学をバロックに代表される襞表現との連関で見るドゥルーズの考察を例に取ることができよう。

テキスト:天野一夫

天野一夫(豊田市美術館 チーフキュレーター)
岡崎市美術博物館「森としての絵画」展(2007年)カタログ文章より抜粋

手塚愛子の場合、たとえば《縦糸を引き抜く 新しい量として》は、ゴブラン織を組成しているなかから白い縦糸をある量のみ解いたもので、その楕円の弧の長さと下部の解く長さが等しいごとく、ひとつの数学的な解のような姿をしている。組まれた文様は、解かれることで再びあいだを開けてたわみ動いてゆく。ペノーネ的な時間的遡及で再び見出された白い糸は、見えない組織体をあらわにして、代わりに不断に変成していく生命体的なイメージを想起させる。我々はそこに人影のような暗がりを見ないだろうか。それは絵画の崩壊であろうか。絵画面は袋のような立体的なものとしてイメージされ、そこからこぼれ落ちるものがあるだろう。整然とした文様と裏の放埒さは、そのようなイメージの在り処を語っている。そして、そのような表裏の交通面としての独自の観念として「絵画」は立ち現れてくるだろう。

VOCA 展 2005 推薦文(テキスト:中井康之)

中井康之(国立国際美術館主任学芸員)
2005年3月

手塚愛子の表現は、絵画を出自としたものではない。絵画が、画布上に繰り広げられる媒材の様々 な痕跡によって築き上げられてきたものであるとするならば、手塚の表現行為はそれらの媒体を 支える支持体自体にわずかに意識をずらしていったものであろう。

歴史的に見るならば、絵画を成立させる物理的な要素を還元化することによって絵画のあり方 を問うよう表現様式を成立させたのは 1960 年代末のフランスにおいてであった。「シュポール /シュルファス」と称されたその運動は、同時に絵画自体の表現を求める美術運動でもあった。 それは鑑賞者が感情移入できるような形態を排除することによって、絵画のための絵画を生み出 すはずであったが、同時にそのような非-歴史性・文学性が、その運動体の表現を衰退化させて いった一因となったかもしれない。

手塚の初期作品にカンヴァスに刺繍を施した作品がある。それは刺繍による図像を見せる作品 ではなく、カンヴァスの裏に投げ出された刺繍糸の塊を見せるための作品であった。絵画が画表 面を見せる様式であるとするならば、手塚の意識は画表面を成立させる構造に注視したものだと 言うことができる。

今回の手塚作品では、文様としての図像が成立している織物を解体して、解体した支持体自体 を見せること、あるいは異なる文様を持つ二つの織物を解体してからそれらを再び紡ぐことによ って、また新たな図像を生み出すことを試みている。歴史的な変遷を経て生まれた匿名性の強い 文様という図像を持った織物に、ある一定の法則による解体/結合を施すことによって、無作為 の作為とも言うべき表現を生み出した。

手塚の表現は、絵画の本質から発生したものではないが、絵画を構成する要素を還元化した上 で、表現のレベルにまで押し上げ、絵画の存在理由に新たな問題を提起している作品として位置 しているのである。

 

– 中井康之(国立国際美術館主任学芸員)
(2005年3月)

Outside of Modernism(2004年 Art Court gallery 個展 プレスリリースより)

中井康之(国立国際美術館学芸員)

 それは絵画でもなく、彫刻でもない。しかし、いわゆる工芸作品ではない。とはいえ、彼女はまぎれもなく芸術作品を作っているのである。人は絵画の形式を問い、彫刻の出自を問い、工芸の伝統を問う。それに対し、彼女の作品はそのような既存の枠組みからなる「構築物(テキスト)」を解きほぐすような佇まいを見せるのである。

 観察する者は、それを絵画と了解し、彫刻的空間を見出し、工芸を構成する素材として認識する。しかし、彼女はイリュージョンに対する異議申し立てをしているのでもなく、量感を排除した空間を構成する訳でもなく、工芸の伝統性への反旗を翻しているわけでもない。しかしながら、彼女は確かに新しい「芸術作品としての形」を作りだそうとしているのである。

「迷宮の糸」(「Art Court Frontier 2003」展 推薦文:中井康之)

中井康之(国立国際美術館学芸員)

 糸に纏わる、良く知られた話に「アリアドネの糸」がある。ミノタウロス殺しのためクレタ島へ来たテセウスに恋をしたアリアドネが一個の糸毬を手渡したことによって迷宮から脱し地上に帰ってくることができたという『ギリシア神話』の中の寓話である。
手塚の一連の作品を見たときに、ふと、その神話を思い起こした。その時は、「糸」が用いられているから、という単純な理由だったかもしれない。しかし、後になってからも手塚の作品が見えない糸で私の頭に繋がってしまったかのように脳裏から離れなくなり、記憶の糸を辿って行くように彼女の作品を考えるようになっていた。
手塚の作品に現れた糸は、これまで見えてこなかった、少なくとも意識することのなかったものを作品としている。模様の入った織物の縦糸という自ら存在する事の無かった、見えない糸を立体的な量として顕わし出すこと。普通には見えるものとしては扱われることのない生地上に編み出された図像の裏地から見た糸を表現の主体とすること…。
このような、見えなかった糸を表現とすること、見えることを拒否されていた存在を顕現化することの寓意性は、今を生きる者にとっては多くの意味を見出さざるを得ないだろう。手塚の糸はそのことを具現化したものとして、我々の意識を覚醒する…